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手を伸ばせば その219


 気遣わしげな表情で、モーガン夫人は頷いた。
「西フランスのロシュフォールにいたとき、夜の裏道で、尾行してきた男にいきなり襲われたそうよ。 追いはぎに見せかけていたけど、そうじゃない。 短刀の使い方から言っても、あれは暗殺者だろうと」
「傷は深いんですか?」
 ジリアンが咳き込んで尋ねると、ほっとしたことに、夫人は横に首を振って否定した。
「後ろからの足音で用心していたから、すぐ反撃できたの。 ただ、そのとき撃ったピストルの弾が、相手の急所に当たってしまって、男は即死。 背後関係を聞き出すことはできなかったそうよ」
 ジリアンは唇を噛んで考えた。
「海軍の任務に関したことでしょうか。 それとも、私を連れ去ったことに関係あるのか……」
「わからないそうよ。 海軍では、開戦前夜に激しくなった防諜戦に巻き込まれたと見ているらしく、怪我したマークを軍艦で大切に送り返してくれたって」
 ジリアンは胸を撫で下ろした。
「じゃ、今は本土にいるんですね?」
「ええ、チチェスターの病院に入っているわ。 妹さんにも同じ時に手紙を出したと言っているから、今ごろ駆けつけているでしょう」
 チチェスターは、軍港のあるポーツマスの近くだ。 そして、ジリアンの故郷のすぐ傍でもある。
 マークを見舞いに、ふるさとへ帰りたい──不意に懐かしさがこみあげてきて、ジリアンは息が苦しくなった。 スコットランドは景色が綺麗で、気候も思ったほど厳しくなく、人の情けに随分励まされた。 だが、故郷の緑なす大地と咲き乱れる花々、柔らかい日差しは、ジリアンにとって他と比べようのないものだった。
 モーガン夫人は膝に手を重ね、一段と真剣な面持ちになった。
「それでね、思いがけない事態になって、予定が変わりました。
 今、あなたが式を挙げた教会に、ジェムさんが行っています。 牧師さんに結婚証明書を書いてもらうために。
 その後、船に乗って、ポーツマスまで彼が送り届けることになりました。 あなたはれっきとした軍人の妻なので、基地で身柄を保護してくれるはずです」
 ジリアンの頬から血の気が引いたのを見て、モーガン夫人は急いで後を続けた。
「ロッシュ中佐という方が、身元引受人になってくださるそうよ。 親切で、貝のように口の堅い人ですって。 だから心配しないで」
 ジリアンはうつむき、上着の裾を固く掴んだ。
「でも、私の子供の父親はマークでは……」
「デントン・ブレア家では、あるしきたりがあるの。 それを使って、マークがうまく切り抜けてくれるわ。 きっとご両親を説得できますよ」
 夫人は楽天的に話を締めくくった。


 ジリアンのほうは、嵐が目前だという自覚で、緊張と同時に喜びを味わっていた。
 モーガン夫人は人格者で心が広い。 その分、家名と自尊心にこり固まったジュリアやジェラルドのような貴族の本性を、理解できないだろう。
 だが、ジリアンにはよくわかっていた。 これからが本物の戦いだ。
 いよいよ最終決着のときが来たと、ジリアンは覚悟した。







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