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表紙

手を伸ばせば その217


 オスマン帝国軍がロシアに奇襲され、港の艦隊を全滅させられて多くの人命を失ったシノーブの戦い以来、イギリスとフランスはオスマン側について軍隊を増強させていた。
 春が近づくと、ロシアとの開戦は目の前だと一般の人々も感じ始めていた。 ただし、今回は遠く離れた黒海付近でのごたごたが元なので、自国が戦場になる恐れはなく、新聞の論調などにも余裕があった。


 軍事や外交の紙面を隅から隅まで細かく読み、軍隊関係の情報を少しでも知ろうとするのは、家族に軍人を持つ者や、物資補給にたずさわっている商人、それに投機のきっかけを狙っている株屋ぐらいのものだった。
 今回、ジリアンもその一人だった。 大切なパーシーは海軍にいる。 マークがどうなったのかも、うなされるほど心配だった。
 その上、短い二月が去って、暦のうえでは 春の三月が訪れた直後、別の事実がジリアンを直撃した。
 ジリアンは、モーガン夫人の私塾で、髪を黒く染め、丸眼鏡をかけて、補助教員に変装していた。
 髪を頭のてっぺんで団子にすると、親どころかパーシーが見てもわからないだろうと思うほど堅苦しいおばさん風になり、ジリアンは大いに楽しんだ。
 この学校に通っているのは、町の中流家庭の女子たちだった。 活発で気取りがなく、遊び好きな六歳から十二、三歳までの女の子たちは、文学と戸外運動を教えるジリアンに、たちまちなついた。
 いい気になったジリアンは、速歩運動と称して近くの林へ連れて行き、鬼ごっこや『ウサギと犬』遊びをやった。 三月のグラスゴーはそれほど寒くなく、柳やブナの新芽が伸びてきて、林は生命の息吹に満ちていた。


 どれほど駆け回ろうが、空腹を抱えて一日四度(お茶の時間を入れて)食べまくろうが、ジリアンはぴんぴんしていた。
 元気すぎるぐらいなので、ぎりぎりまで気づかなかった。 こんなに毎日、体調を考えずに動き回れるほうが変だという事実に。
 そして、三月の声を聞いた日、ようやく思い当たった。 もしかしたら、妊娠しているかもしれないと。


 その日、ジリアンは別人のように静かだった。 生徒たちが心配して、風邪を引いたのではないかと訊いたぐらいだ。
「ううん、熱はないのよ。 ただね、今日は雨が降ってるから、ホールで椅子取り遊びするぐらいがいいんじゃないかと思ったの」
「マーシュ先生、雨はいつも降ってます」
 ロージーという活発な少女が、髪を揺らして立ち上がって叫んだ。
「毎日、二回も三回も」
 実際、春の天候は特に変わりやすく、いきなり風が吹いて雷が鳴ったり、突如晴れて気温がワッと上がったりするのだった。
 ロージーの目を見て、ジリアンは微笑んだ。 内部から光が湧き出すような、強さと輝きのある視線だった。
「そうね。 でも今日は大降りで、傘をささなきゃいけないわ。 それじゃ速歩きも無理でしょう?」
 残念そうな吐息が一斉に漏れた。 ジリアンは両手を広げ、言葉を継いだ。
「行きたい気持ちはわかるわ。 でも、雨は必要なものよ。 雨水が土に染みこんで、木や草に吸い取られ、大きく伸ばすの。
 天気が悪いと外出はしにくくなるけど、その間も雨はひっそりと自然を育ててる。 畑も、森も、それに私たちも」







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