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表紙

手を伸ばせば その215


 サー・タイラーは悲嘆に暮れた。 だが、誰よりも悲しいはずのミランダ夫人は、待ち疲れた二週間が過ぎて司直の手が入ると、しばらく寝込んだものの、やがて自力で起き出してきた。
 そして、元は笑い声の絶えなかった団欒の居間で、酔えない酒を飲みつづけている夫の腕に身を寄せ、上ずった声で囁いた。
「タイ、諦めないで。 あの子は生きているわ」
 それを聞いて、サー・タイラーは思わず嗚咽を漏らし、夫人を固く抱きしめたという。
 止めてくれ、という夫の頼みにも、ミランダ夫人は口を閉じなかった。 あやすようにサー・タイラーの頭を抱え、優しく揺すりながら呟き続けた。
「わかるの。 夢であの子が知らせてきたのよ。 立派なふかふかした揺り籠に入っているのが見えたわ。 傍にもう一人、小さな男の子がいて、坊やに話しかけていた。 僕が守ってやる、いろんなことを教えてやるから早く大きくなれ。 そう言っている子供の声が聞こえたの」
「ラニー!」
 扉の陰で様子を見ていた従僕は、同情で目頭が熱くなったと語っていた。


 ミランダ夫人は、夢で芽生えた希望を捨てなかった。 もてあましたサー・タイラーは、三度も池を大掛かりに浚〔さら〕わせた。 亡くなった赤ん坊か、せめて乳母のミリー・パターソンでも見つかれば、妻が幻の思い込みから目覚めるだろうと思ったためだ。
 結果は、徒労に終わった。 むしろ夫人の確信を強めただけだった。 息子は生きている。 そう固く信じたミランダ夫人は、寝る前に必ず息子に呼びかけ、夢を見ると覚えている限り日記に書いた。


 何度か、同じ部屋が夢に現れる、とミランダは夫に話した。 きっと赤子が育てられている育児室なのだろうと。
 もう少し大きくなって、外に出るようになったら、きっと家の外観がわかるはず。 そうなったら絶対に見つけ出すわ、とミランダは言い切った。
 だが、その日は来なかった。 早春、久しぶりに眩いほどの太陽が昇った朝、ミランダ夫人は家政婦を伴って、教区の牧師に会いに行った。 寄付をするのが主な目的だったが、もう一つ、子供が一日も早く見つかりますようにと祈るためでもあった。


 教会から出た直後、家政婦は久しぶりに会った隣人に呼び止められ、挨拶を交わした。
 ほんの数分だったのに、振り向くとミランダ夫人の姿がなかった。 慌てて馬車に駆けつけたが、のんびり煙草を吸っていた御者はきょとんとするばかりだった。
 半時間ほど周囲を探し回った末、帰って旦那様にお知らせしようということになり、馬車を走らせて戻った。


 ミランダ夫人が、子供の消えた池の岸辺に浮いているのを発見されたのは、翌日の昼過ぎだった。







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