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表紙

手を伸ばせば その214


 乳母のミリー・パターソンは近くの村の出で、愛嬌があり、ぽっちゃりしていて男好きのするタイプだった。
 でもミリーは鍛冶屋〔かじや〕をしている夫のジムに首ったけで、他の男には見向きもしなかった。 少なくとも、その恐ろしい日までは、そう言われていた。


 赤ん坊が生まれて半年ほど経った冬の日、ミリーは忽然と姿を消した。
 数日前に、粋な赤いバンダナを巻いた若者が、ミリーと親しげに立ち話しているのを、何人かの村人が目撃している。 若者は見慣れない余所者で、魅力的な顔立ちをしていたという。
 ミリーが夫を残していなくなったときから、若者の姿も見られなくなった。 そしてその同じ日に、ハバストン侯爵家の小さな若君も連れ去られた。


 乳母と赤ん坊を求めて、家族と使用人が広大な領地を探し回っている最中に、脅迫状が見つかった。
 汚い金釘流の大きな字で、鉛筆書きされていた。 子供を返してほしかったら、村外れのブナの木近くにある柵越え用の段の下に、翌日までに二千ポンド入れろ、という内容だった。


 すぐには揃えられないほどの大金だが、サー・タイラーは自ら六十マイル離れたバジルドンの町に馬を飛ばし、大きな札束を鞄に詰めて持ち帰ってきた。
 警察には一切知らされなかった。 子供が無事に戻るまでは、わずかな危険でも冒せなかったのだ。
 厩番の頑丈な若者が、三人交代で昼夜を分かたず柵越えの段を遠くから見張った。 しかし、その日いつまで待っても、羊以外は誰一人、指定された場所に近づく者はなかった。


 侯爵は、断腸の思いで州の警察に連絡した。 たちまち屋敷の周辺は警察隊で一杯になったが、手がかりは見事なほど何も見つからず、乳母と若者も行方知れずのままだった。


*  *  *


 エセックスにあるハバストン侯爵領ダーンリー・コートは、ロンドンからそう遠くないので、フランシスは父の雇った探偵を一人拝借して、これだけのことを五日で調べてもらった。
 事件にたずさわり、今はもう引退した元警察官の推測だと、ミリーは若い美男に目がくらんで、駆け落ちの資金を作ろうと赤ん坊を盗み出した。 しかし結局ふられてしまい、今さら侯爵邸にも戻れず、やけになって赤ん坊もろとも池に身投げしたのだろうということだった。
 赤ん坊のナイトドレスだけが浮いてきたという、その大きな池は、藻が大量に繁殖していて、うっかり落ちると手足にからみつき、ほぼ絶対に浮き上がってこないと言われていた。









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