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表紙

手を伸ばせば その211


 その年は、二月に入ると寒さがやや緩み、雪が雨に変わった。
 それでも、ほぼ毎日灰色の空模様が続いた。 太陽の拝める日は稀で、陽気なジェムでさえ口数が少なくなった。
 気分転換に、グラスゴーの友人を訪ねてみないか、とメアリー夫人が言い出したのは、三月が近くなった風の強い朝だった。


 そのとき、二人は夫人の家事室で、レンガ作りの暖炉にあたりながら縫い物をしていた。 メアリーはテーブルクロスを仕立て、ジリアンはエプロンの胸にクロスステッチで花の刺繍を入れていた。
 縁縫いを完成させたところで、メアリーは眼鏡を額の上に押しやり、糸目を慎重に確かめているジリアンに目をやった。
「アメリカに旅行していた友達が、一週間前グラスゴーに戻ってきたんですって。 娘さんがサンフランシスコの貿易商と結婚したので、遊びに行っていたの。
 その彼女がね、つもる話があるから来てくれないかって。 だからジェムに連れていってもらうつもりなの。 ぜひあなたにも来てほしいわ。 道中、男の子だけが道連れじゃ、間が持たないでしょう?」
 ジリアンはためらった。 ここでパーシーを待ちつづけていたい。 他所へ行って、すれ違いになってしまうのが怖かった。
「ありがたいお話ですけど、私は人目を避けている身なので、グラスゴーのような大都会には……」
「大きな町のほうが、かえって紛れやすいのよ」
 メアリーは真剣に言った。 そして、少しの間ジリアンの表情を確かめてから、思い切って口に出した。
「あなたは察しがいいから、ごまかしてもかえって不安になりそうね。
 旅行に出てからゆっくり話そうと思ったけれど、ここで言います。 驚かないでね。
 実は、マークが負傷したの」


 ジリアンは、雷に打たれたようになった。
 唇まで青ざめたジリアンを見て、メアリーは急いで身を乗り出すと、彼女のほっそりした両手を握りしめた。
「いつ、どこで怪我したのか、はっきりしたことはわからないの。 ただ、マーク本人から左手で書いた急ぎの手紙が来たんですって。 郵便屋の手を通さずに。
 そこには、酒場の喧嘩に見せかけて襲われた、命は無事だが背中と太腿を刺されたから当分動けない、と書いてあったそうよ」
「そんな……」
 目まいと吐き気が襲ってきて、ジリアンはうつむいた。
「ナサニエルが読んで、すぐ手紙を焼いてしまったから、又聞きなんだけど、できるだけ早くあなたをもっと安全な場所に移してくれと頼まれたわ」
「やっぱり私のせいで!」
 悲鳴に近い声を聞いて、メアリー夫人は握った手に力を込めた。
「そうじゃないの。 自分を責めないでね。 わかったでしょう? マークはあなたの身を誰より案じているの。 私たちにはあなたを守る責任がある。 だから一緒に来てちょうだい」




 こうして、表向きはグラスゴーの旧友を訪問するということで、メアリー夫人とジェム、それに地味なボンネットとマントに身を包んだジリアンは、小雨のそぼ降る静かな朝に、旅行用馬車に乗って、ナサニエル邸を後にした。







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