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表紙

手を伸ばせば その210


 毎晩、まるで闇の妖精のように、パーシーは離れの壁をよじ登って、ジリアンの元を訪れた。
 情熱的に抱き合う夜もあれば、並んで横たわって、昔の思い出や、具体的ではないものの未来の夢についての話に、時が経つのを忘れる夜もあった。
 パーシーは、そう長く海軍にいるつもりはないようだった。
「海は好きだし、操船術を学べるのは役に立つ。 俺は運が良くて、士官仲間にいい奴が多いから、これまでごたごたに巻き込まれたことはない」
 それはパーシーの人柄と、男兄弟が多かったせいだ。 その気になれば、豪快な性格のパーシーは男子の人気者になれるタイプだと、ジリアンはよく知っていた。
「でも軍隊は辞める。 船長にもならない。 一年に何度かしか君の待つ家に帰れないなんて、虚しい」
「賑やかなのが好きなんだものね。 私もそう。 お宅のみんなと毎日駆け回っていた夏が、涙が出るほど懐かしいわ」
 火花を散らして、暖炉の石炭が崩れた。 パーシーは裸のまま、身軽にベッドから降りて、スコップ一杯の燃料を平らに振り撒いた。
 空気がよく通るため、火の勢いが増し、部屋は一段と暖かくなった。
 戻ってきた彼を毛布でくるみこみながら、ジリアンは囁いた。
「慣れた手つきね。 軍隊では釜焚きも教わるの?」
 ベッドにすべりこんだパーシーは、冷えた足先をジリアンの足に押しつけて、いたずらっ子のように笑った。
「これは見よう見真似。 ふふ、冷たいだろう」
「いいわよ、温めてあげる」
 そう言いつつ、ジリアンは両足首で彼のつま先を挟み、ぎゅっと締めあげた。 パーシーは大げさに騒いだ。
「いて、いて! 足首が外れる!」
「嘘ばっかり。 切り株みたいな足してるくせに」
「やったな。 じゃ、俺もお返し」
 足をねじって、布団の中で簡単にジリアンを引っくり返すと、パーシーは恋人の上で顔を動かして、あちこち噛みつくまねをした。
「俺はライオンだ。 ほら、どこから食ってやろうか」
 やがてその動きは優しくなり、終いに首筋に軽く歯を当てて、眼を閉じた。
「俺のチビさん、バンビーナ・ミア……」
 ジリアンは驚いて瞬きした。 照れ屋のパーシーが、イタリア語で愛を囁くなんて。
 低い声は、途切れ途切れに続いた。
「行かなきゃならない。 明後日には。 でも、必ず戻ってくる。 君を迎えに来る……!」
 ジリアンの鼻の奥が、別れの悲しみにツンと痛み始めた。
「信じてるわ、パーシー。 待ってるから。 いつまでも」
 不意に躍りあがって、パーシーはジリアンの頬を挟むと、持ち上げて見入った。 ぎらついた、ライオンというより豹に近い瞳が、ジリアンの心に食い入った。
「いつまでもは待たせない。 あと一、二ヶ月が勝負だ。 ぜったい勝つ!」
「ええ」
 決意を秘めて、ジリアンは答えた。
「私もできるだけ準備しておくわ」


 翌晩、パーシーは黒っぽい粗末なコートに身を包み、別れの言葉だけを言いに来た。
 その際、彼は油紙で縛った包みを置いていった。 ジリアンが涙をぬぐいながら、後で確かめると、それは二つ折りになったポンド紙幣の束だった。







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