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手を伸ばせば その198


 そこでマークが暖炉の上の置時計を見て、立ち上がった。
「じゃ、時間ですからそろそろ出かけます。 すぐには帰ってこられないと思うので、ナット伯父さんジリアンをよろしく」
「確かに引き受けた」
 マークはジェムと目を合わせ、ジリアンに微笑みかけた後、すっと部屋を出て行った。 軍へ戻り、危険な任務に就くのだろうが、まるで隣の家へ行くような、あっさりとした退場の仕方だった。


 昼食の少し前に、小型の一頭立て馬車が前庭に走り込んできた。 乗っていたのは中年の婦人で、誰の手も借りず自分ひとりで馬を御し、ぴたりと玄関の前に止めると、身軽に飛び降りた。
 一枚だけ持ってきたウールのデイドレスに着替えて、自分用の部屋の窓辺に座っていたジリアンは、活発な足取りで屋敷に入っていく婦人を見て、ああ、この人がメアリ夫人だとすぐわかった。
 それで、早足で部屋を出て階段を下りた。 すると、ホールから上がってきた夫人と踊り場で鉢合わせした。
 メアリ夫人は、ジリアンを見るなり愛嬌のある丸顔をほころばせ、手を差し出した。
「いらっしゃい! ナサニエルの家内のメアリです。 大変な旅でしたでしょう?」
 柔らかいアルトの声に込められた本物の優しさに、ジリアンは我にもなく涙ぐみそうになって、急いで眼をしばたたいた。
「かくまってくださって、ありがとうございます。 ご親切に」
 そう口にしながら、体が自然に動いた。 ジリアンはメアリ夫人に抱きつき、肩に額を押しつけた。
 やがて、頬にそっとキスが置かれた。 ジリアンのあまり経験したことのない、世間一般の母親のような暖かいキスだった。
 そして、背中を軽く叩かれた。 途方に暮れた子供をあやすように。
「心細かったのね。 わかりますよ。 私も十八で両親を無くしましたから」
 ジリアンは、懸命に涙をこらえた。 メアリ夫人の言う通りだ。 マークと家を出た瞬間に、ジリアンには真の意味での親はいなくなったのだった。
 メアリ夫人の穏やかな声は続いた。
「でも、大船に乗った気でいてくださいね。 ナサニエルは頑固で、敵に回せば厄介だけれど、味方にすればあれほど頼もしい人は少ないですよ。 自分の夫の自慢をするようだけど。
 それにマークも、本当に頼れるようになったわ。 子供の頃から思慮深かったのが、軍隊に入って度胸もついて」
「ええ、そうですね」
 我に返ったジリアンが、恥じらいながら抱擁を解くと、夫人はすぐ彼女の手を取って、階下に導いた。
「ジェームズにはもう会いました? そう。 世間知らずな子でね。 気づかずに失礼なことをしたら、ぴしっと言い返してやってくださいね。 あの子にはいい薬になりますから」




 ジリアンが天井の低い昔風の食事室で、ナサニエルの家族に囲まれて昼食を取っている頃、グローブナーの広壮なデナム屋敷では、クリスマス休暇で戻ったばかりの長兄フランシスが、両親との口論に火花を散らしていた。








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