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手を伸ばせば その193


 それから、マークは済まなそうに言葉を付け加えた。
「そっちへ出かけるのは明日になります。 今夜は宿屋に泊まったという実績を作らないと」
 二人の目が合った。 マークの眼差しは落ち着いていたが気詰まりな雰囲気もあり、一方ジリアンの眼は当惑で落ち着きを失っていた。
「あの……同じ部屋に?」
「やむを得ないですね。 結婚に異議を唱えられないためには」
 ジリアンは無意識に、雲が飛ぶように流れ過ぎていく暗い空を仰いだ。 無性に不安がつのった。
「私の好きな人は、何て言うでしょう」
「きっとあなたを信じてくれますよ。 そうでなかったら本当の愛じゃない」
 マークは真顔になって、きっぱりと言った。




 もう完全に夜で、風は一段と冷たさを増していた。 分厚いショールを手に入れておいてよかったと言いながら、マークはジリアンの頭と肩にしっかりと巻きつけてくれた。
「ここはイングランドより寒いですからね、歩いていって肺炎にでもなったら大変だ」
「宿は近いんですね?」
「ええ、五分とかかりません」
 不思議に思えるほど、マークはロンドンでもここエディンバラでも地理に詳しかった。 ただの軍人とは思えない。 おそらく情報将校なのだろうと、ジリアンは察しをつけた。 それも、相当の腕利きだ。
 二人は寄り添って、せせらぎの音の聞こえる石畳の道を急いだ。 小柄でほっそりしたジリアンが強風で吹き飛ばされないように、マークは腕を巻いて抱きかかえていた。 そのため、ランプが揺れてカタカタと音を立てている宿屋の玄関口に着いたときは、いかにも仲のいい駆け落ち夫婦に見えた。
 転がり込むように中へ入ると、セーターの上にジャケットを着込んだ赤ら顔の主人が迎えてくれた。
「おいでなさい、お二人さん」
「部屋は空いてるかね?」
「はい」
 主人は前に立った大柄な青年と小柄な女性を交互に見た後、鍵束を出した。
「一部屋ですな?」
「そうだ」
「では、こちらにサインを」
 マークはペンを受け取り、デスクに前かがみになって名前を書いた。
 見るともなく眺めていたジリアンは、ふと違和感を覚えた。
 なぜかはわからない。 ただ意識の中を、奇妙なじりじりするような思いが、チラッとかすめ過ぎていった。











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