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表紙

手を伸ばせば その189


 日が昇ったばかりのサウスエンド・オン・シーでも、マークはほとんど時間を取らずに、スコットランドへ運んでくれる船を見つけ出した。 タラの底引き網漁をする帆船で、沿岸で小魚などを採っている小舟より大きく、安定感があった。
 マークは漁師のおかみさんから大きいウールのショールを借りて、ジリアンの頭から上半身にかけて、しっかりと巻きつけた。
「これから食べる物を調達してきます。 すぐ戻ってきますが、それまでできるだけ顔を隠すようにして、あのおかみさんの傍にいて、手伝うふりをしていてください」
「わかりました」
 ジリアンは、そう答えるしかなかった。
 所持金は僅かだ。 逃げるに足りないし、知らない土地で若い女が一人でさまようのがどんなに危険か、いくら世間知らずでも理解していた。


 一時間ほど経ち、マークが大きなバスケットを下げて姿を現わすと、漁師のおかみさんが目ざとく見つけて、陽気に声をかけた。
「おかえり! あんたのいい人は働き者だねえ。 あんた目が高いよ」
 その横では、ショールに埋もれたジリアンが、器用な手つきで黙々と蕪をむいていた。
 マークは内心驚いたが、すかさず調子を合わせた。
「役に立つ子だろう? 手間賃を貰いたいぐらいだな」
 おかみさんは豪快に笑い、台の下から瓶を一本取り出した。
「金は払いたくないけど、これをあげるよ。 特に出来のよかった年のリンゴ酒だ。 持っていきな」
 大きなガラス瓶を渡されて、ジリアンは戸惑いながら礼を言った。
「ありがとう」


 外海は、テムズ川と違って波が高く、底引き船は大きく揺れた。
 船酔いしないジリアンは、波しぶきのかからない場所に座って、マークが持ってきたパンとチーズとハムの塊を分け合って食べた。
 コップがなかったので、リンゴ酒は回し飲みだが、ジリアンは一切文句は言わなかった。
 マークは、何度かジリアンを見つめていた。 貴族令嬢とは思えない振舞いにあきれているのだろうと思い、ジリアンは気づかぬ風を装っていた。
 そのうち、マークのほうが口を開いた。
「理想的だな」
 予想外の発言だ。 ジリアンはパンを喉に詰まらせそうになった。
「軍人の妻として、あなたは最適だ。 忍耐強いし、度胸がある。 その上、船がいくら揺れても平気だ」
「冗談ばっかり」
 軽口を言っているのだと思い、ジリアンも軽く返した。 だが、マークは真剣だった。
「本気ですよ。 丸い蕪を上手にむくなんて業を、どこで身につけたんです? 知り合えば知り合うほど、あなたの正体がわからなくなる」
「東サザンプトンシャーの本宅で、フランス人のシェフと仲良しだったんです。 いろんなことを教えてもらいました。 卵の割り方からマドレーヌの作り方まで」
「台所に入り浸りだったんだ」
「その通り。 園丁や馬番の後もついて回っていたわ。 末っ子だから親はもうどうでもよかったみたいで、雇い人たちが友達でした」
「人なつっこいんですね。 無防備な子供のときに誘拐されなくてよかった」
「逆に、雇い人みんなと知り合いだったから、守ってくれたんだと思います」
「ああ……そうかもしれませんね」
 マークの声が低くなった。









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