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手を伸ばせば その187


 初めは闇の中を出発したが、テムズ川を河口へ向けて進んでいく内に、空の端がぼんやりと白んできた。
 マークは懐から時計を出して、オレンジ色のランプの光で確認した。
「八時二分前。 十時には着けるでしょう」
「いや、九時半に行きつきますって」
 赤ら顔の船頭が請合った。 マークは、彼の肩を叩いて激励した。
「そりゃいい。 本当に九時半前に到着したら、もう半クラウン上乗せしよう」
 とたんに船頭は、張り切って舵取りを始めた。


 狭い船を這うようにしてジリアンの傍に戻ってくると、マークは声を潜めて囁いた。
「もうわかっていると思いますが、事態は予想以上に危険だし、時間も迫っています。
 しかもあなたは、まだ未成年だ。 これがもっとも厄介です」
「あなたが人攫い〔ひとさらい〕になってしまうの?」
 ジリアンは心から心配して尋ねた。 マークは苦い笑いを浮かべて首を振った。
「いや、それは心配してません。 今のところはね。 あの暗いあなたの寝室で、ジェラルドが僕を見分けたとは思えないし」
 それから、彼は決意を込めて、ひたとジリアンの目を見つめた。
「これからが正念場です。 さっき作戦を思いつきました。 とても思い切った計略なので、あなたに賛成してもらえるかどうか自信がないのですが」
 そんなに?
 ジリアンは身が引き締まるのを覚えた。
「危険なのですか?」
「あなたの将来に関して言えば、イエスです」
 マークは苦しそうに答えた。
「八割はうまくいくと思いますが、あと二割が……」
「その作戦を実行しないと、私はどうなります?」
 マークは、粗いロープを束ねて置いてある船底に目を落とした。
「十中八、九、連れ戻されてジェラルドと縁組ということになりますね。 今ごろあなたの部屋で発見されているでしょうから」
「それは嫌です、絶対に」
 ジリアンは、きっぱり言った。


 マークは少し黙っていた。
 それから、いくらか野太い声で告げた。
「では、サウスエンド・オン・シーから別の船に乗って、ダンディーへ行ってもらいます」
「はい」
 よくわからないまま、ジリアンは素直に応じた。
「着いたら、できるだけ早く、結婚誓約書に署名します」








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