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手を伸ばせば その186


 ジリアンは、あれこれ訊かなかった。
 マークの判断は、これまでいつも正しかった。 だから、こんな緊急事態のとき、黙って従うのは当然のことに思えた。


 実をいうと、英国に戻ってきてから、ジリアンは常に家出を考えていた。 具体的に準備はしていなかったが、何と何を持っていくべきか、よく空想した。
 その手順に従って、彼女は素早く動いた。 暖かい下着、流行遅れの地味な服とマント、丈夫なブーツ、マフより手袋。 そういった衣類をベッドに放り出し、柱に止めてある天蓋からのカーテンを下ろして、月光を頼りに中で着替えた。
 ジリアンが身支度をしている間に、マークは気絶したままのジェラルドを呼び鈴の紐で後ろ手に縛り、サイドテーブルのクロスを使って猿轡〔さるぐつわ〕をかませた。 慣れているとしか思えない手際の良さだった。


 ジリアンはベッドからすべり降りると、引出しから財布入りの手提げを出した。 ジェラルドをぐるぐる巻きにして立ち上がったマークが、小声で囁いた。
「服は何枚か重ね着してください。 持っていくより楽だし、体型が変わって見破られにくくなります」
 すぐにジリアンは、大き目のブラウスや上着、スカートを次々と羽織った。 もう体裁など吹き飛ばして、ドロワーズ(下履き)もその場で三枚穿いた。
「そう、その調子」
 楽しげに呟くと、マークは窓に寄って、よじ昇ってきたロープを回収し、見る間に三つの大きな輪を作った。
「これを肩とウェストにかけて、下へ降ろします。 崖から男を吊り下げて降ろしたことがあるから、あなたぐらい絶対に大丈夫。 信じてくれますか?」
「もちろん」
 怖がるどころか、むしろ冒険にわくわくして、ジリアンは即座に答えた。


 脇の下に当たる輪を二重にして、痛みを和らげる工夫をしてから、マークは窓枠の強度を確かめ、慎重にジリアンを吊り降ろした。
 思ったより早く、芝生の地面に足が着いた。 ジリアンはすぐロープを引いて合図し、マークが猿のようにするすると降りてくるのを見守った。
 二人はしっかり手をつないで、屋敷の外壁を伝いながら西の庭園に近づいた。 ロココ調の整った庭園の外れには、小規模な林が連なっている。 蹄の音がしないよう、マークはその中に馬を止めていた。
 訓練された馬は、静かに主人の帰りを待っていた。 そして、マークが前にジリアンを乗せても気にせず、しっかりした足取りで木々の間を抜け、裏門に向かった。


 急いで行きたいのは山々だが、マークはあえて、馬が一番楽な速歩〔はやあし〕で進んだ。 それでも人の歩く距離の三倍から五倍は行ける。 グローブナーの静かな住宅街は、あっという間に遠ざかった。
 マークが目指したのは、テムズ川だった。 泥と生ゴミの臭いが混じる低地で、崩れそうな小屋が軒を接して立ち並んでいる区域だ。 彼はその一軒のドアを叩き、ランプをかざして寝ぼけ顔で出てきた中年男に頼んだ。
「サウスエンド・オン・シーまで至急だ」
「へい、わかりやした」
 男は文句を言うこともなく、黙々とドアの裏にかけていた外套を取ると、二人を伝馬船へ案内していった。








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