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手を伸ばせば その185


 床を忍び足で歩いていた人間は、ぴたりと動きを止めた。
 もう一人は、大胆に窓枠を乗り越えて入ってきた。 二人の侵入者は、一瞬の間を置いた後、ほぼ同時に走り出して、取っ組み合った。


 まともな言葉は、何も聞こえなかった。 ただ、分厚い絨毯の上で転がり回る鈍い音と唸り声だけだった。
 普通の女の子なら、息を殺して小さくなっているところだが、ジリアンは違う。 体を伸ばして、しなやかにベッドの裾から這い出すと、出窓の横に置いてある大きな花瓶目がけて走った。
 その間も、格闘は続いた。 水と温室咲きのグラジオラスが入ったままの花瓶を持ち上げて、ジリアンがふらつきながら向きを変えたとき、抑えつけられたほうの男がもがきながら、懐から何かを引っ張り出すのが見えた。
 黒光りした銃身が、ジリアンの目を射た。
 彼女は即座に判断した。 薄暗い上に激しくのたうち回っていて、どれが誰か見分けがつかないが、こっちが悪党にちがいない!
 ジリアンは三歩で駆け寄ると、半身を起こして相手にピストルの狙いをつけようとした男の頭上で、花瓶を手から離した。


 ほとんど音はしなかった。
 強いて言えば、花瓶の底にひびが入るビキッという不吉な響きはあったかもしれない。
 それから男の体が斜めに倒れていき、じゅぶじゅぶと花瓶から溢れた水が、彼の黒っぽい服に吸い込まれていった。


 相手の男は、床に伸びた男を急いで押しのけ、絨毯に手を置いて立ち上がった。 月明かりの差し込んだ窓に背を向けているので、顔は見えない。 だが、彼が素早く上着を脱いで、夜着一枚のジリアンに着せかけたとき、反射的に正体がわかった。
「マーク?」
「そうです」
 低い囁きで答えた後、マーク・デントン・ブレア少佐は指を一本ジリアンの口に当てた。
「声を出さないように」
「はい」
 ジリアンは大きく頷いた。
 マークは、倒れ伏している男の腰を軽く蹴って、表返しにした。 びしょ濡れになった髪が額に張り付き、半分しか顔が出ていないが、それは間違いなく、ジェラルド・デントン・ブレアの貴族的な面立ちだった。
「やっぱりこいつか」
 いがむように呟くと、マークは片膝をついてジェラルドの首筋に指を当てた。
「気絶しているだけだ。 夜這いするなんて、殺されても文句の言えない立場だが」
 すっと立ち上がってから、彼はジリアンの片手を取ってキスした。
「えっ?」
 たじろぐジリアンに、マークは早口で言った。
「あなたのおかげで命拾いした。 拳銃を隠し持っているとは思わなかった」
「とんでもない! 助けを呼んで、あなたを危ない目に遭わせたのは私よ。 来てくださってありがとう! よかった〜、撃たれないで」
 ジリアンの手を握ったまま、マークは鋭い視線で部屋を見回し、数秒間耳をそばだてた。
「静かだ。 誰も様子を見に来ない」
「ええ、しんとしてるわ」
「じゃ、危険度は百パーセントだ。 身の回りの物をまとめてください。 ここはもう、逃げるしかない」
 マークはそうきっぱりと告げた。








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