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表紙

手を伸ばせば その181


 徒歩で行ける距離に住んでいて、信頼できるのは、アン・トラヴァースしかいない。 アンは長姉ヘレンの親友で、彼女が駆け落ちするとき密かに手助けした伯爵令嬢だった。


 外は寒く、木枯らしが吹いていた。 だが、屋敷の広大な庭の裏木戸から忍び出て、午後の弱い日差しの中を小走りで歩くジリアンは、頬に当たる冷たい風をほとんど意識しなかった。
 家を出て十分後、ジリアンはベルクレア伯爵邸の玄関前階段を駆け上がった。 来客用の鐘を引いて鳴らすと、顔見知りの執事ハーディーがドアを開けた。
「これはレディ・ジリアン」
「こんにちは、ハーディー」
 ジリアンは息を切らせながら、早口で尋ねた。
「アンはご在宅?」
「はい、藤の間で、ボクシング・デイ(クリスマス直後の日)に貧しい子に配るお菓子を詰めていらっしゃいます」
「優しいアンらしいわね。 私が入ってもいいかしら?」
「どうぞ。 お伝えしてまいります」


 ジリアンを玄関に通すと、ハーディーは廊下を歩いていった。 そしてすぐに、奥から青いドレスを着たアンが出てきた。
「ジリー! 久しぶりね」
「ええ、お元気そう」
「あなたも」
 抱き合って挨拶した後、アンは真面目な顔になった。
「どうしたの? たった一人でここまで来るなんて、何かあった?」
「ええ」
 ジリアンは震える息を吸い込み、思い切って話した。
「ヘレンが嫌がって逃げた相手と、無理やり結婚させられそうなの」


 アンは丸く口を開けた。 文字通り、開いた口がふさがらない様子だった。
「いやだ……こう言っちゃ悪いけど、お宅のご両親は執念深いわね」
「両親じゃないの。 主に母」
「ああ、ヘレンもそう言ってたわ」
 アンは深刻に頷いた。
「見かけのいいジェラルドに騙されちゃうのね。 でも本当に、彼は駄目よ。 美人のことはちやほやするけど、私みたいに並みの器量だと、露骨に見向きもしないのよ」
 愛嬌があるが美人とはいえないアンの口調は、苦々しかった。
「ここだけの話だけど、雇い人に手を出すんですって。 可愛い子には片っ端から。 それで、あの、不始末が起きたら」
 遠まわしに言って、アンは顔を赤らめた。
「わずかな一時金を渡して、追い払うって。 もちろん責任は一切取らないそうよ。 大金持ちなのに、なんて人でしょう!」


 初めて聞くジェラルドの醜聞に驚くと共に、ジリアンはすぐ、一つの顔を連想した。
 ジェラルドの行状は、瓜二つといっていいほど似ている。 イタリアでマデレーンと結婚しようとしたレンツォ・ダミアーニに。
 母は、甘やかされた傲慢な貴族ばかりを、娘の婿に選ぶらしい。 いったい何を考えているのか。
 自分でも知らない間に、ジリアンは拳をきつく握りしめていた。 腹が立って、頭から湯気が立ちのぼりそうだった。
「その話を聞いて、とことんジェラルドが嫌いになったわ」
「当然よ」
 二人の娘は、大きく頷き合った。
「それで、どうするつもり? ヘレンと同じ道を行くなら、私応援するわよ」
「ありがとう! でも今日は駆け落ちの相談で来たんじゃないの。 この手紙を届ける手助けをしてくださらない? 相手は忙しい人だけど、今日明日はまだロンドンにいるはずだから」
 薄い封筒を受け取って、表書きの宛名を見たアンは、複雑な表情になった。
「デントン・ブレア少佐?」
「ええ、ジェラルドの遠縁の。 でも、彼は親切で、いつも私の味方をしてくれるの。 何かあったら助けると約束してくれたわ」
「あらあら」
 アンは、まだ名前に目を据えたまま呟いた。
「ジェラルドは、身内にまで嫌われてるのね」








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