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その176
ジリアンも固い表情になって、行く手に延びるオックスフォード・ストリートの賑わいに目をやった。
確かに結婚には、長年にわたる契約という側面がある。 親同士が決めた結婚なら、なおさらだ。
だからこそ、親しみと思いやりが潤滑油になるのだ。 何一つ共通点がなく、大切に思えない相手と、安心して一緒に暮らせるはずがない。
気が付くと、無意識に手袋を片方取って握り締め、くしゃくしゃにしていた。
やがて、女性用の店が軒を連ねている一角が見えてきた。 仕立て屋、靴屋、手袋屋、それに扇や靴下やハンカチなどを扱う小間物屋……。
手前の馬車置き場に馬車が入りかけたとき、ジリアンはごく普通の口調で、母に尋ねた。
「ヘレンを探した?」
とたんに、ジュリアは刃のような眼差しで睨み返した。
「誰がそんなことを! あの子は一族に恥をかかせたのよ! 野垂れ死にしたって当然だわ」
ジリアンの背筋が、ぞくっとした。 これが母親の言うことだろうか。
ヘレンは気を遣う性質だった。 柔軟で、母の身勝手に一番よく耐えていた。 だからジュリアも、ヘレンをもっとも可愛がっているようだったのだが。
不意に記憶の厚い層の下から、一つの言葉が浮かび出てきた。
──幼なすぎて愛を知らず──
どこで読んだかまたは聞いたか、定かではなかった。 だが今、ジリアンは、上等な手袋に包まれた母の指が、いらだたしげに窓枠を叩いているのを眺めながら、悟った。 たとえ幾つになっても、この形容が当てはまる人がいるのだと。
母は、忍耐と共感を育まずに大きくなった。
持って生まれた美貌と財力のため、子供のころからちやほやされ、一声かければ召使や取り巻きが何でもしてくれたからだ。
そして、貴族の最高位である公爵を夫に持った。 デナム公爵ジェイコブは、しっかりした男性ではあるが、不精で、妻をたしなめてヒステリーを起こされるのを面倒がり、やりたいようにさせておいた。
その結果が、今のデナム公爵夫人だ。 人のうらやむ物をほとんど持っているのに、いつもいらいらして、どこかしら体の不調を訴えている。 そして娘たちには、最高の夫をという美名の下に、上等な服と身分つきの案山子〔かかし〕を押し付けようとしているのだ。
(もしかしたら、お母様は狭い世界に閉ざされた世間知らずなのかもしれない)
馬車が揺れながら止まった。 ジリアンはすぐ立ち上がろうとせず、鈍い頭痛を感じながら目を閉じた。
幼い時分、母は美しく怖い人だった。 冴えない小さな末っ子として、ジリアンは母を畏れ、尊敬していた。
今でも母は美しい。 しかし、尊敬する気持ちは、あらかた消えてしまった。 それが、ジリアンにはひどく寂しかった。
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