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表紙

手を伸ばせば その169


 雲の端が切れて、星の影がいくつか見え始めていた。 それでも風はまだ止まらず、馬車の扉に手をかけたもののなかなか乗ろうとしないジリアンの帽子を、いきなり巻き上げた。
 これ幸いと、ジリアンは転がるボンネットを追いかけて、桟橋を走った。 あわててレイクも後をついて駈けてきた。
 パッと帽子を拾い上げて埃をはたきながら、ジリアンはレイクに宣言した。
「あんな陰気な馬車に、長時間揺られて行くのは嫌よ」
 レイクはゆっくり横に首を振った。
「わざわざ奥様がお迎えによこした馬車ですから」
「だから嫌なの」
 ジリアンも負けずに胸を張り、目を怒らせてレイクを見返した。
「あれに缶詰にして、逃げられないようにする気なんでしょう? 私は、そんな真似はしません。 不愉快だわ」
「お気持ちはわかりますが」
 なおも説得しようとするレイクを、ジリアンは遮った。
「ちゃんとロンドンへ帰ります。 ただし、もっと早い汽車に乗って」


 十八世紀の末、ジョージ四世が海水浴療法を気に入って、この地に宮殿を建ててから、海辺の小村だったブライトンはみるみる発展し、高級保養地になっていた。
 1841年には早くも鉄道が引かれ、夏になると、ロンドンから日帰りで海水浴客がやってくる。 今は冬で、客足はまばらだが、それでも鉄道は本数を減らして運行していた。
「汽車ならロンドンへ直通だわ。 おまけに最近じゃ、時速60マイルぐらい出るんでしょう? 二時間もあれば、着いちゃうじゃない」
「確かに」
 レイクは苦い顔で頷いた。
「馬車だと丸一日かかるところですがね」
「マーテル(御者)たちには、荷物を持って帰ってもらうわ。 私たちは鉄道で行きましょう」
 ジリアンの頑固な表情を見てとって、レイクは譲ることにした。 首都に帰らないと言っているわけではないのだから。


 一時間後、二人は一等車のコンパートメントに向かい合って座り、きっちりと閉まった窓の外に、時折遠くの灯火が流れていくのを目で追っていた。
 やがて、ジリアンか感心して言った。
「本当に速いわね。 景色が後ろに飛んでいくわ」
「昼間なら、もっといい眺めなんですが」
 レイクが、ちょっと残念そうに呟いた。


 線路の継ぎ目で車体がピクンと跳ね上がるのを、ジリアンが面白がっていると、ドアが開いて車掌が入ってきた。 切符のチェックだ。
 車掌が確認して、切符に鋏を入れている最中、狭い通路を大柄な男性が歩いてきた。
 彼が開いた出入り口から中を見たので、ジリアンも何気なく顔を上げた。
 目が合ったとたん、ジリアンは思わず口を開けて、小声で叫んでいた。
「まあ、デントン・ブレア少佐!」







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