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表紙

手を伸ばせば その165


 ル・アーヴル、正式にはル・アーヴル・ド・グラース(優雅な港)と呼ばれるこの港町は、十六世紀にフランソワ一世が力をいれて造り直しただけあって、建物は趣きがあり、港も使いやすく整備されていた。
 だが、そんな美しい町のたたずまいも、ジリアンには何の関心も惹かなかった。 きれいな古都なら飽きるほど見てきた。 今見たいのは、彼女より一足早く十八歳になった青年の、きりっと引き締まった彫りの深い面立ちだけだった。


 タラップを下ろした小型客船には、荷車や人力で次々と荷物が運びこまれてゆく。 ボンネットを押さえた婦人が、夫らしい男性と腕を組んで船に向かいながら、立ち尽くすジリアンにちらりと目を走らせていった。
 イギリスから迎えに来た父の秘書マックス・レイクが、懐から銀の懐中時計を出して、じっくり眺めた。
「もう二時だ。 そろそろ出航でしょう。 乗るとしますか」
 ジリアンはためらい、もう一度周囲をぐるりと見回した。
「あと少しだけ。 お願い」
 いかめしい表情を崩さずに、レイクはやや声を下げて言った。
「ここまで待ったんです。 もう来ませんよ……」
 言葉が途中で止まり、視線が鋭く上がった。 その視線を追ったジリアンは、港の外れで灰色のマントがはためくのを見た。
 ジリアンは息を呑んだ。 そして次の瞬間、飛ぶように走り出した。
 相手も走ってきた。 軍服を着た逞しい腿が風を裂き、全速力で駈けてくる。 人夫や積荷の山をぎりぎりで避けて、二人は跳ねるように抱き合った。
 しばらくは、声が出なかった。 ただ夢中でお互いに触れ、健やかなのを確かめあった。
 確認が終わると、ジリアンはパーシーの冷えた頬を両手で挟んだ。 うるんだ眼差しで見つめられて、パーシーは激しく瞬きした。
「ジリー ……」
「来てくれたのね」
「あらゆる手を使ったよ。 上官に頼みこみ、友達に手を回し、賭けで仲間の休暇を取り上げて、やっと出てこれた」
「苦労させたわね」
 ジリアンの声がくぐもった。 とたんにパーシーは身をかがめ、恋人にキスした。 最初はそっと、次はもう辺り構わず激情を込めて。
 ジリアンの背後で、咳払いが響いた。 二人はいやいや顔を離し、同時に振り向いた。
 マックス・レイクは、無表情のまま、パーシーと目を合わせた。
「もう船が出ます」
「そんな」
 珍しく、パーシーは顔をくしゃくしゃにした。
「必死で馬車を急き立てて、降りた後も馬車馬以上に走ってきたのに、もう時間なのか?」
「そう文句を言われると思いましたよ」
 レイクは落ち着き払って、続きを述べた。
「で、船の切符をもう一枚買っておきました。 万が一間に合ったときの用意として」
 ジリアンが激しく息を吸い込み、反射的にレイクに飛びついて頬にキスした。
「ありがとう! さすが父の自慢の秘書さんだわ!」







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