表紙目次文頭前頁次頁
表紙

手を伸ばせば その164


 その午後、ルアーヴル付近は小さな低気圧が通過していて、沖合いまで白い波頭がレースのように立っていた。
 時折襲ってくる強風に、ジリアンは何度もフードを押さえ、マントを巻きつけ直しながら、灰色に渦巻く空を見上げた。
「風が激しくなってきたわね。 船は出港できるかしら」
 きゃしゃなジリアンを庇う形で、風上に立っているマックス・レイクは、にこりともせずに手をかざして、水夫が木製のタラップを運び下ろすのを眺めた。
「ちゃんと出るようですよ。 向こうの空が白んできましたから、もうじき天気は回復するでしょう」
「よかった」
 そう呟いた声とはうらはらに、ジリアンの表情に淡く影が差した。 顔は動かさないようにしたが、眼は忙しく港を巡り、何かを求めている。
──これじゃ間に合わない。 手紙が届かなかったんだろうか。 それとも休暇が取れなかったのか…… ──
 また一段と強い風が港を吹き抜け、ジリアンのマントを大きくはためかせた。 フードが手をすり抜けて脱げてしまったが、ジリアンはもう被り直そうとせず、大っぴらに首を回して、来るはずの人を探した。


 スイス山中の寄宿学校へ押し込められてから、二年と四ヶ月。 その間、ヨーロッパ各地を旅することはできても、故郷のイギリスには一度も戻れなかった。
 休暇になると、両親の知り合いという貴族が入れ替わり立ちかわり迎えに現れ、大都会や名所旧跡に連れていかれた。 そこでは必ずパーティーや舞踏会があり、家柄のいい青年たちがジリアンを取り巻いた。
 パーシーを忘れさせようとしているんだわ、と、ジリアンは初めから気づいていた。 社交の予定は、常にぎっしり詰まっていた。 いくらでも提供される華やかなドレスに身を包み、昼は音楽会や馬車での散歩、夕方からはオペラやダンスに出かける。 若く賢い公爵令嬢は、どこへ行っても天井知らずにもてはやされた。
 いつもちやほやされ、賞賛され、よりすぐりの美青年たちが彼女の手を取るために争う毎日。 普通なら、舞い上がってしまったにちがいない。
 だが、ジリアンは違った。 どの社交場でも優雅でしとやかに振舞ったが、それはすべてお芝居だった。
 その証拠に、住まいへ帰りつくとすぐ、ジリアンは飾りのない夜着に着替え、デスクにかじりついて手紙を書いた。 姉のマデレーンと兄のフランシス、学院の友達、そして誰よりも一番長く、愛しいパーシーへ。


『私の大きなアヒル隊長さんへ
 冬の休暇が始まったとたん、ド・ヴィニ伯爵夫人が自ら、娘のカトリーヌの迎えに来て、ついでに私も馬車に乗せて、優しく拉致したの。 公爵夫人からお迎えを頼まれてね、という、いつものセリフ付きで。
 こうなるたびにいつも思うんだけど、母の力は想像以上に強いようね。 毎晩星を見上げて、逃げたい、逃げたいと祈っているの。 でも、正面突破は無理だから、今のところはおとなしくして、母を油断させることにしてる。 社交界なんて退屈そのもので、いつもアクビを噛みころしてるけど。
 

 こんなだらけた毎日を送っていたら、あなたに怒られそうね。 海軍がどんなに規律正しくて大変なところか、セバスチアンという英国海軍大佐に聞いたわ。 リチャード・セバスチアンという人なの。 知ってる?
 鞭で殴られることがあると聞いて、その晩はよく眠れなかった。 あなたは将校だから、罰せられるより罰するほうかもしれないけど、男性ばかりの軍艦の厳しさを考えたら、あなたの苦労がなまなましく感じられちゃって……。
 また逢いたいわ! この前ローマでほんの僅か話してから、もう三ヶ月経ってしまったなんて。
 あの後しばらく、あなたのことしか考えられなくて、どこへ行ってもぼうっとしていて、とうとう熱を測られてしまったわ。 インフルエンザにかかったんじゃないかと思われたの。


 でもね、私の隊長さん、もしかしたら、今度こそイギリスへ戻れるかもしれないの。 オスマン帝国とロシアのいざこざが大きくなってきたから、ここフランスでもロシア嫌いが増えて、戦争になりそうでしょう? だから、できるだけ大げさに母に伝えたの。 連れ戻してって、涙混じりに。
 帰るとしたら、カレーではなくルアーヴルからになるはずよ。 あそこにはド・ヴィニ家の別荘があって、出航まで泊まれるから。
 あなたが休暇を取れると嬉しいんだけど! この手紙がいつ届くかわからないから、ぎりぎりまで港で待ってるわ。 本土の土を踏んだら、母の見張りが厳しくなるから、フランスで逢いたい。 できたら来てね、お願い!


あなただけのジリー』








表紙 目次 前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送