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表紙

手を伸ばせば その163


「今年のクリスマスには、ジリーを本土へ連れ戻してね」
 それが、ハーバート・ラムズデイル夫人マデレーンの、母ジュリアに対する生まれて初めての高圧的な要求だった。
 今度だけは、テコでも後へは引かないと、マデレーンは固く決心していた。 最近は、母と顔を合わせるのもうとましく、産後だということを口実にしばらく会っていなかったのだが、シンクレア伯爵夫人の慈善パーティーには欠席することができず、三ヶ月ぶりにダンス会場でばったり鉢合わせしたところだった。
 羽根飾りのついた扇を優雅に揺らしながら、ジュリアは片方の眉を上げた。
「おまえに命令される謂われはありませんよ。 第一、この二年あの子は休暇のたびに、アテネ、ローマ、パリと奥様方に連れ回ってもらって、見聞を広めているのよ。 あんな素晴らしい体験をさせてもらっている子供は、グランドツアー(大卒後などのヨーロッパ大陸周遊旅行)の男の子たちにもいないでしょう」
「いくら素晴らしい旅でも、故郷から追放されているんじゃ楽しさ半減だわ」
「誰が追放なんか!」
「してるじゃありませんか!」
 マデレーンは、勇ましく母に食ってかかった。
「私はもう三年近く、あの子に会っていないのよ」
「そんなこと」
 ジュリアは鼻であしらった。
「手紙のやりとりはしてるんでしょう? 写真も何枚か送ってきたし。 技術の進歩はすごいわね。 肖像写真だけじゃなくて、遺跡や海の風景まで写し取れるのだから」
「カメラの前で動かないでいる写真じゃ、ジリーの活き活きした表情や笑顔が全然見えてこないわ。 私はジリーに会いたいの。 話がしたいのよ、お母様」
 珍しいマデレーンの剣幕に、ジュリアが一瞬言葉に詰まって、顔を横に向け、客たちに視線をさまよわせた。
 シルクやサテン、タフタなどの高価な布地をまとい、レースとリボンと各種の宝石を惜しみなく散りばめた貴婦人や令嬢たちが、すべるように会場を行き来していた。 エスコートするのは、半世紀前までの華麗な色使いの服を捨て、すっかり黒が基調になった紳士たちだ。 金糸の紐で飾りつけた白い柱の横で語り合う、というより口論しあうジュリアとマデレーンの元にも、流行の夜会服をきちんと着こなしたハーバートが、グラスを二つ持って近づいてきた。
 シェリーとシャンパンを義母と妻に渡すと、ハーバートはいくらか頭をかしげる仕草をして、ジュリアを見守った。 二人が何の話をしていたのか、わかっている顔つきだった。
 ジュリアは、いらいらした様子で、シェリーを一口すすった。
「そんなに言うなら教えてあげるけど、ジリアンは今、陸路でパリからルアーヴルに向かっている最中よ」
 たちまちマデレーンの顔が明るく輝いた。
「帰ってくるのね! 今年こそ!」
「あなたも新聞ぐらい読むでしょう? シノーブの港はどこにあるか知らないけれど、黒海で艦隊が全滅するなんて怖いことだわ。 これ以上ロシアが出しゃばってきて、ヨーロッパがごたごたする前に、安全なイギリスへ戻さなきゃ。 まだ結婚前で十八の小娘なんですからね」







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