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手を伸ばせば その138


 兄妹が思った通り、母のジュリアは激昂した。 こんなに怒り猛った母は、これまで見たことがなかった。
 ジリアンとフランシスは、まず書斎で居眠りしていた父に話し、唸りながらもどことなくこの結果を予想していたような父から、母を呼んでくるように言われた。 それで、直接には何も告げずに、書斎へ母を連れて入った。


 ヘレンが、子爵という肩書きだけしか持たないゴードン・クレンショーと、半日近く前に駆け落ちを決行したと聞いた瞬間、ジュリアはぎりぎりと歯を噛み鳴らした。
 そして、いきなり中央の暖炉に駆け寄ると、マントルピースの上にかけてある子供たちの肖像画の中から、ひときわ美しいヘレンの絵を外すなり、赤々と燃える石炭の中に放り込んだ。


 重苦しい沈黙の中に、絵の具の燃える油臭い煙が広がっていった。
 やがて、ドアが遠慮がちに開き、執事のオズボーンが顔を覗かせた。
「失礼いたします。 どこかで火の不始末でも?」
「いや」
 デナム公爵が答え、声がしわがれているのに気づいて、低く咳払いした。
「ちょうどいい。 妻とこの子たちにワインを持ってこさせてくれ。 わたしはここにあるブランディを飲む」
「かしこまりました」
 オズボーンが退出すると、デナム公ジェイコブ・クリフォードは再び咳払いして、革張りの椅子からゆっくり立ち上がった。
 サイドテーブルに寄って、グラスにブランディを注ぐと、ジェイコブは独り言のように呟いた。
「正午前に汽車に乗ったか……もうノッティンガム辺りまで行ったかもしれんな」
「あなたには大したことではないでしょうよ!」
 暖炉を背にして振り向くと、ジュリアは氷の矢のような言葉を夫に投げつけた。
「初めからヘレンをデントン・ブレアに嫁がせるのに乗り気ではなかった。 あの子の幸せを少しは考えろなどと、呑気なことを言っていた!
 だから、ヘレンはここまで親をないがしろにして、我がまま勝手に出ていったのよ! うちの体面が、評判が、どれだけ傷ついたと思っていらっしゃるの!」
 たまらなくなって、ジリアンは母に近づき、冬の枝のように硬く曲がった腕に手を置いた。
「お母様、どうか大声を出さないで。 使用人たちに聞こえてしまいます」
「そうですよ。 もう駆け落ち結婚を止めることはできないんだから、今度はうまく後始末することを考えなきゃ」
 ジュリアは胸をふくらませ、口を挟んできた長男を睨んだ。
「あなたの監督不行き届きでもあるのよ。 ヘレンの様子がおかしいのを、見抜けなかったの?」
 むっとして、フランシスは背筋を伸ばした。 彼は父の傍に立ち、ブランディを一緒に飲んでいたが、母の一方的な怒りに、そろそろ堪忍袋の緒が切れかけていた。
「ヘレンを納得させられなかったのは、母上でしょう? だいたい、ジェラルドみたいなボンクラとヘレンが釣り合うと思ってたんですか?」
「凡庸だからこそ利用価値があるのよ。 ヘレンの魅力なら、夫をいいように引き回せたでしょう。 邪魔なら貴族院議員にでもして忙しくさせて、後は自由に遊べばいいのよ」
「それはお母様自身の夢なんじゃない?」
 ジリアンは、我慢できなくてつい本音をぶつけてしまった。










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