表紙目次文頭前頁次頁
表紙

手を伸ばせば その137


 手紙を握りしめて立ち尽くすジリアンの横で、ベティが小声で言い訳していた。
「そっとベッドの枕の下に隠しておいてくれって言われてたんでした。 でも、じかにお渡ししたほうがよかったですよね?」
「ええ」
 ヘレンは細かく考えたのだ。 少しでも発見を遅らせるように。 たまたまフランシスとジリアンが博覧会見物を思いついたのも、逃げる手助けになった。
「八時間は先を越せたわ」
「え?」
 ベティのけげんな顔に、独り言を呟いたのに気づいて、ジリアンはぎこちない笑いを作ってみせた。
「ううん、何でもないの。 すぐに着替えるから、手伝ってね」


 ディナー用のドレスを着終わった後、ジリアンは肩にストールを巻いて、裏庭に面した窓辺に立ち、フランシスと愛馬アーマーの姿が見えないかと目を凝らした。
 十分ほど経ったころ、すでに真っ暗になった空の下、蹄の音がして、敷石の上に黒い影が降り立った。
 ジリアンはすぐ窓を開け、身を乗り出して、低く呼びかけた。
「フランシス?」
「すぐ行く。 正面階段の上で待っててくれ」
 フランシスの声は切迫していた。


 ジリアンが部屋を出ると、フランシスはあっという間に階段を上ってきて、妹の手を取った。
「クレンショーも姿を消していた。 思った通りだ。 やつは今日の昼前、家族に見送られて堂々と汽車に乗ったそうだ。 シェフィールドの近くで遺跡が発見されたから見物に行くと言って」
「一人だったの?」
「そう見せかけていたらしいな。 でも、先に客車に誰か隠れていたって、見送り人にはわからないからな」
「別の駅で乗って、合流したかもしれないし」
 二人は暗い目を見合わせた。
「シェフィールドは北の方角だ。 それに、乗り換え線はいくらでもある。 クレンショーたちがスコットランドへ入ってしまえば、もうどうしようもない」


 ハードウィックが1754年に定めた結婚法により、イングランドの未成年男女は親の許可がなければ結婚できないことになっていた。
 これでは恋愛結婚はほぼ不可能に近い。 それで、勇気のあるカップルは、そんな法律のない隣のスコットランドに逃げ込んで、駆け落ち結婚を敢行した。
 このスコットランド式駆け落ち婚がイングランドでも有効かどうか、長年議論が闘わされたが、式を挙げてしまったものは今更取り消せないので、うやむやに認められてきた。 ただし、馬車の時代は逃避行にとても金がかかったため、現実に実行した恋人たちの数は、それほど多くなかった。
 しかし、今では両国とも鉄道網が敷かれ、1848年にはお互いに行き来できるようになった。 旅費も、昔に比べればずっと安い。 しかも、馬車より汽車のほうが速いのだ。


 階段の手すりに掴まって、フランシスは大きく息を吐いた。
「せめて僕たちに相談してくれたらなあ。 母上はともかく、親父殿を説得して、嫌な結婚を中止か、延期にできたかもしれないのに」
「ロンドンへ戻ってきても、二人は社交界から閉め出されるわ。 お母様も、それにジェラルドも、決して許さないでしょう」
「ああ見えて、ジェラルドは相当執念深いからな」
 兄妹は肩を落とし、辛い話を両親に伝えるために、とぼとぼと階段を下りていった。










表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送