表紙目次文頭前頁次頁
表紙

手を伸ばせば その134


 ジリアンは、再び一階へ駆け下りた。 不安はますます大きくなり、胸が不規則に鳴った。
 裏庭沿いの廊下を小走りで進み、白の居間で客用の家具の片付けを指揮していた執事のオズボーンを見つけた。
「オズボーンさん!」
 セオドア・オズボーンは常に平静だ。 このときも、不意に声をかけられたのに落ち着いた様子で体を回し、ジリアンの方に向いた。
「お帰りなさいませ、ジリアンお嬢様」
「ただいま。 ねえ、ヘレンがまだ戻ってきていないんですって?」
 初めて、執事の冷静な顔にかすかなひびが入った。
「ご一緒に行かれたのでは?」
「いいえ、馬車で出たとたんに気分が悪くなって、トラヴァースさんのお宅で預かってもらったの」
「それは午前中でございますね?」
「ええ、もう八時間ぐらい経つわ。 直ったらすぐ、家に送ってもらうはずだったのに」
 オズボーンは白い手袋を嵌め直し、決然とした表情になって、傍にいた従僕に命じた。
「角のトラヴァース邸を知っているな?」
「はい」
「すぐ馬車で行って、ヘレンお嬢様をお迎えしてきなさい。 もし万一おいでにならなかったら、いつ、どうしてお帰りになったか、ちゃんと訊いてくるように」
「かしこまりました」
 ほっとして、ジリアンはオズボーンに微笑を投げた。
「ありがとう。 できればお母様たちには知らせたくないの。 ヘレンが怒られたら可哀想だから」
「きっと気分がよくなられて、お友達のアン様と楽しく過ごしておられるのでしょう」
 オズボーンは、安心させるように言った。


 それからの十五分は、ジリアンにとって一時間にも感じられるほど長かった。
 夕食は、残りの客たちとのお別れディナーになるはずなので、いつもに増してきちんとした格好をしなければならない。 コートを脱いだだけの外出着姿で、いちおうドレス選びを始めたが、気が散ってほとんど手につかなかった。
 やっと象牙色の綾織ドレスを選んだとき、下の石畳で馬車の音がした。 たちまちジリアンはドレスをカウチに放り投げて、部屋を飛び出した。


 裏口から出て駆けつけた馬車は、空だった。 ジリアンは、硬い表情で御者席から降りてきた従僕のサムを捕まえ、押さえた声で尋ねた。
「いなかったの?」
 サムは視線をそらし、馬を外しに来た馬屋番を気にしながら、低く答えた。
「はい。 どうも妙なんです。 トラヴァース様のお宅に入って半時間ほどしてから、ヘレンお嬢様はお家へ伝言を出されました。 迎えに来てくれという手紙だったそうです」
「それで?」
「間もなく馬車が来て、お嬢様を乗せていきました」
 そう話しながら、サムは今しがた乗って帰ってきた馬車の車体を軽く叩いた。
「これと同じような馬車だったそうです。 御者の格好もわたしとよく似ていて……だから、向こうの屋敷の人は、同じ迎えが二度来たと不思議がっていました」


 ジリアンは、思わず首元を手で押さえた。 苦いものが、喉からせり上がってくる。 公爵家のものに偽装した馬車で、ヘレンは誘拐された──最初の瞬間、そう思った。
 だがすぐ、まったく別の可能性が、頭に浮かんだ。
 これは、初めから計画された芝居だったのだ。 ヘレンは仮病を使って博覧会ツアーを抜け、迎えの馬車で消えた……!










表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送