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手を伸ばせば その131


 クリフォード兄妹の乗った馬車は、三台の末尾だったので、少しの間なら停車させても支障はなかった。 フランシスが天井を叩くと、御者はすぐ手綱を引き寄せて、馬を止めた。


 弱々しくうつむくヘレンの顔は、乗る前より更に赤みを増していた。 息も苦しげだ。 気が気でなくなって、ジリアンは素早く手袋を取り、姉の頬に触れた。
「熱はないみたいだけど」
「悪いわね、心配させて」
 ヘレンは、ふぅっと小さく息を吐き、馬車の窓から明るい道を眺めた。
「珍しく車に酔ったらしいわ。 昨夜は遅くまで踊って、少し疲れたから」
「会場に着いて馬車を降りれば、車酔いなんてすぐよくなるわ」
 ジリアンは姉を励ましたが、ヘレンは弱気に首を振った。
「博覧会の人出は凄いんでしょう? 見て歩いているときにまた気分が悪くなったら、あなた達が楽しめないわ。
 ほら、あそこにアン・トラヴァースの家が見える。 彼女のところでちょっと休ませてもらって、それから家に帰るわ」
 アンは伯爵の娘で、ヘレンの親友の一人だった。
 姉がいないと見物のとき寂しい。 ジリアンはためらったが、フランシスは決断が早く、すぐ身軽に馬車を降りて、ヘレンに手を貸した。
「じゃ、ヘレンを連れていって、挨拶してくる。 ジリーは動くなよ。
 ハル、ここでちょっと待っててくれ。 すぐ戻るから」
「かしこまりました」
 御者が答えた。 ジリアンは、兄がヘレンを抱えるようにして道を横切るのを、不安な気持ちで見守った。


 五分ほどして、フランシスが石畳の舗道に姿を現わし、急ぎ足でやって来た。 表情が明るかったので、ジリアンはホッとした。
 身をかがめて馬車に乗りながら、フランシスは手短に説明した。
「アンは家にいた。 気持ちよく引き受けてくれて、助かったよ」
「具合は?」
「元気はなかったが、風邪じゃないだろうと言われた。 熱も咳もないからね。 念のため、午前中はあの家でゆっくり休ませてもらって、その後帰ることになった」
「よかったわ。 万一ほんとに具合が悪くなっても、アンがお医者さんを呼んでくれるでしょうし」
「自分のことは気にしないで、楽しんできてくれと言ってたよ、ヘレンが。 博覧会は秋まであるんだし、いつでも行けるからって」
「そうね」
 それでもまだいくらか心配そうなジリアンに、向かい側へ無造作に座ったフランシスは、パチッと陽気にウィンクしてみせた。
「いい子だ、楽しくやろうぜ。 僕は三度目だから、有名どころだけじゃなく、穴場の展示物にも案内してやるよ」




 ハイドパークにわずか九ヶ月で建設された会場は、白い鉄骨とガラスでできた壮大な温室の趣きだった。
「これが水晶宮なのね。 妖精が屋根のあちこちに飛び交っていそう」
 もろさと華麗さを併せ持ったガラスの城を、ジリアンは心から感心して眺めた。
 前に到着した二台の馬車は、馬止めにきちんと並んでいたが、乗客の姿はなかった。 ジリアンたちを待たずに、さっさと会場に入ってしまったらしい。
 開始されて二ヶ月が経っていたが、まだ見物客は引きも切らず、半円の天井になった正面口から、次々と吸い込まれていった。











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