表紙目次文頭前頁次頁
表紙

手を伸ばせば その113


 五枚買ってくれれば、更に一割値引きすると言われて、ジリアンは精巧なレースのハンカチをまとめて買い込んだ。
 すると、にこにこしながら見守っていた大尉が、スペイン語で店主に何か言った。 とたんにソブリン金貨が二枚も返されたので、ジリアンはびっくりした。
「あら……」
 店主は愛想笑いを顔一杯に貼り付けて、両手を広げてみせた。
「特別サービスでございます。 またごひいきに」


 店を出ると真っ先に、ジリアンはデントン・ブレア大尉に尋ねた。
「お店の人に何と言ったんですか?」
 大尉は楽しそうに答えた。
「半値にしても十分儲かるだろうと言ってやったんです。 以前、マルタ島に行ったことがあってね。 この丸いレースは、あそこら辺で作られるんですよ。 工賃は、店主のふっかけた値段の三十分の一ぐらいです」
「まあ、そんなに安く……」
 ジリアンは、細かい仕事を一生懸命やっている女性たちが気の毒になった。


 大尉は、ジリアンをさりげなく庇って、横看板が幾つも張り出した狭い通りを巧みに歩きながら、プラタナスや棕櫚の木が囲むマルタの広場ののんびりした昼下がり、魚売りの女がロバをひいた運び人と引き起こした大騒ぎの話を、面白おかしく語ってきかせた。
 あまり話が上手なので、ジリアンは笑いすぎて、むせてしまった。 横を歩くレイクも、顔を崩さないよう努力しているが、唇の端がぴくぴく可笑しそうに動いていた。
「それで、興奮したロバはどうなりました?」
「後ろ足で思い切り水桶に蹴りを入れて、空中に放り上げたんです。 桶は、残った水を振り撒きながら一回転して、怒鳴って走ってきた憲兵の頭に、ズボッと嵌まってしまいました」
 レイクがプッと吹き出し、慌てて咳払いしてごまかした。 ジリアンはハンカチで目を拭いながら言った。
「そんな、まさか」
「本当にそうなったんです。 コメディア・デラルテでも、あれほどタイミングぴったりとはいかなかったでしょう」
「ずいぶん楽しい経験をなさってるのね」
「たまたまです」
 大尉が澄まして言ったので、ジリアンはまた笑いが止まらなくなった。 なにしろ十代半ばだから、人生で一番感情の起伏が激しい年頃だった。


 愉快な散歩をしていると、あっという間に時が過ぎた。 その間、何人かの英国軍人とすれ違った。 大尉と顔見知りの者は、当然挨拶していったが、知り合いではないらしい兵士でも、必ずジリアンに目を留め、はっとしたような表情を浮かべた。
 それが不思議で、港に引き返す道筋、ジリアンは大尉に訊いてみた。
「あなたが女の人と歩くのは珍しいんですか?」
 驚いた様子で、大尉はジリアンの目をまともに見返した。 深みのある青い瞳が、一瞬奇妙な表情を帯びた。
「そんなことはないと思いますが。 どうしてですか?」
 ジリアンは無邪気に答えた。
「だって、軍人さん達はまずあなたを見て、それから私を見て、驚いた顔をするんですもの」
 私が子供すぎるからかしら、とジリアンは思った。 だが、大尉が返した言葉は、驚くべきものだった。
「それは、あなたが目を見張るほど魅力的だからですよ」









表紙 目次前頁次頁
背景:kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送