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手を伸ばせば その96


 船は、波に揺られながらイベリア半島を回り、一日かけてジブラルタルを目指していた。
 冬の最中だが、気温はイギリスを出てきたときに比べて十度以上高くなっていて、寒さに慣れたジリアンには暑いぐらいだった。
 哀れなホッブスは、ほとんど船室から姿を見せず、ベッドに横たわってうめいていた。 さすがに心配になって、ジリアンが時々様子を見に行くと、いつも決まって尋ねる。
「今、どこを運行しているの?」
 そして、まだ大西洋を南下していると聞くたびに、牛のような唸り声を上げるのだった。
「もう我慢できません。 ジブラルタルで下ろして!」
「だんだん体が船に慣れてくるはずですわ、先生。 みんなそうですもの。 あと少しの辛抱ですよ」
「私は並み外れているんです!」
 こんなときまで妙な自慢をせずにはいられない人だ。 ジリアンは笑いたくなったが我慢して、薄い野菜スープを持っていった。 わずか二日の内に、ホッブスがなんだか痩せたような気がした。
「何か召し上がったほうがいいと思いますが」
 揺れているスーブを見たとたん、ホッブスの顔から一段と血の気が失せた。
「無理、うーっ、気持ちが悪い……」
 ジリアンは慌てて、空になった水差しをとっさに渡すと、船室から逃げ出した。




 だから、その日の夕食も、無口なレイクと差し向かいで食べるしかなかった。
 船長は、ジョン・シェパードという名前で、ライオンのような顔をしていた。 陽気な男で、乗客と順番に会食している。 その夜は、新しく乗ってきた若い軍人二人と丸テーブルを囲み、ホイスト(=トランプのゲーム)の話をしていた。
 ジリアンは、できるだけ二人の若者のほうに視線を向けないようにした。 興味があるなんて思われたらたまらない。 それに、中途半端な子供扱いされた怒りも加わっていた。 あと半年で十六歳なんだから、と、ジリアンは心の中で力んだ。


 食堂の片隅では、五人の楽団がなごやかなガヴォットを奏でていた。 食事を終わったカップルが立ち上がって楽団に近づき、何か頼んで心づけを渡すと、たちまち曲がワルツに代わった。
 一組、また一組と、ディナー用に正装した人々が踊り始めた。 船の上では散歩かミニ・クロッケーぐらいしかできないので、運動不足になっていたジリアンは、ちらっと前のレイクを見た。 だが、彼は黙々とデザートのライスプディングを頬張っているだけ。 踊ってみたいジリアンの仄めかしに気づいた様子を見せない。
 つまんない人だわ、と、ジリアンはがっくりした。 スチュワードが皿を片付けている間、肘掛にもたれて、デッキまで溢れ出した踊り手たちを眺めていると、すぐ横で深みのある声が聞こえた。
「失礼。 踊っていただけませんか?」








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