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表紙

手を伸ばせば その94


 ジリアンたちの父、ジェイコブ・クリフォードは、去年の夏に財政官僚として、恐慌寸前の経済を食い止めたとして、公爵に推挙されていた。
 それが今年の初め、ようやく実現して、デナム公爵となった。 連合王国公爵だから新たな領地はなく、いわば名誉職だが、クリフォード家の格は一段上がったわけで、夫人のジュリアは鼻高々だった。
 だからこそ、ジュリアにとってマデレーンの『失態』は許せないものだった。 せめてヘレンとジリアンには家柄にふさわしい最高の結婚を、と望む母心は、燃え上がるばかりなのだ。 二人の姉妹には大迷惑なことに。



 ジリアンを学校まで送り届ける役目は、これが最後の仕事となるエラ・ホッブスに任された。 最悪だ、とジリアンは頭を抱えたが、やがて事は意外な展開を迎えた。



 フランス経由で陸路の多い旅をしたマデレーンと違い、デナム公爵は先のイタリア行きで使った海路を再利用することにした。 
 長い船旅になるから、ホッブス先生だけでは無用心だ。 それで、公爵の秘書マックス・レイクが付き添っていくことになった。
 レイクは寡黙な男性だった。 岩に刻んだような顔をしていて、与えられた仕事はきちんとこなすが、それ以上のことは決してやらない。 ほとんど表情を変えないため、長兄のフランシスはレイクのことを、歯車で動く木彫りの人形みたいだとからかったことがあった。


 まだクリスマス休暇の余韻がただよう高級住宅街を、ジリアンたちは朝九時に自家用馬車で出発した。
 下町へ向かうにつれて、様々な馬車や馬、荷車の混雑がひどくなった。 材木や彫刻、屋根の材料などが運ばれていくのは、春の終わりから開催される万国博覧会場の建設が始まっているからだった。
 馬車の窓にもたれて、ジリアンは埃と喧騒に満ちた狭い道路を眺めた。
「もうじき、世界中から新しい物や珍しい物がロンドンに集まってくるのね。 そして、それを見に世界中の人々がやってくる。
 なのに私は、山の中の窮屈な寄宿学校に行かなくちゃならない」
「どの身分にも、しきたりがあります」
 ホッブスは、ここぞとばかりお説教を始めた。
「上流階級の令嬢は、高貴な血を子孫に伝える大事な役目を担っているのです。 だから厳重に守られ、教育され、結婚後は夫の庇護に従うように……」
 また耳タコの訓示を聞かされて、ジリアンはうんざりして手袋をはめなおした。 きちんとサイズを合わせたはずだが、いつもより指が短い感じがした。
 つまらなそうなジリアンの横顔を見て、ホッブスは珍しく、機嫌を取るようなことを付け加えた。
「それに、夏休みには戻れるのだから、博覧会を見に行くことはできるでしょう。 なんでも、半年ぐらいやっているらしいから。 ねえ、レイクさん?」
 向かいの席に座っていて、突然話を振られたレイクは、無表情な灰色の目をホッブスに据え、短く答えた。
「その通りです。 期間は十月の半ばまであります」
「だったら間に合うわね」
 ジリアンは、少しホッとした。


 
 船旅は、イタリア旅行でもう慣れていた。 それに、幸いジリアンは船に酔いにくい体質らしく、少々海が荒れても気分が悪くなることはなかった。
 しかし、ホッブスは悲惨なことになった。 彼女はいつも自信に満ちているのだが、いざ実行してみると、半分ぐらいはまったく苦手だ。 フランス語、ラテン語、編物は非常に上手い。 だが、乗馬、自転車、馬車の操縦などは論外で、首を折るから絶対にやらせるな、と公爵から禁止令が出ていたほどだった。
 気の毒にも、船はホッブスの守備範囲から遠かった。 まだ港の中にいるときから、すでに顔色が悪くなり、外海に出てからは見栄を張ることさえできなくなって、洗面器を抱えて船室に閉じ篭もりっきりになった。








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