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手を伸ばせば その93


 1851年の年始めは、ジリアンにとってやたら慌しく、同時にどこか閑散とした印象を残した。
 慌しいのは、当然留学のための準備が忙しかったせいだった。 行くのは、スイスでも有数の金持ち学校だ。 ヨーロッパの貴族や大富豪のみならず、植民地で幅を利かせる成金や高級将校の娘たちが集まっている。 初めに服装や持ち物でガツンとやっておかないと、公爵令嬢でも片隅に追いやられそうな、油断ならないミニ社交界だった。


 母は、結婚前の少女にふさわしい真珠の一揃いを渡してくれながら、ジリアンに言い聞かせた。
「マデレーンは気が弱いので、ディアデンご夫妻の次女のアビゲイルと同室にしてもらったのよ。 あの子は、どこへ行っても物怖じしない出しゃばりですからね。 要領がいいし。
 でも、あなたには適当な娘さんが見つからなかったわ。 急に決まったことだから。 それで」
 鍵のかかる宝石箱とは別に、上等な革で作った袋を、母のジュリアはテーブルに置いたバスケットから取り出した。
「お金を入れてあるわ。 スイス・フランとドイツ・クラウン。 それにデュカート(=ダカット)金貨も何枚か。 うまく使うのよ。
 ただし、これを使って学校から逃げたりしては駄目よ。 あなたは、うちの娘たちの中では一番頭が回るようだから、女の子が一人でヨーロッパを旅するのがどれほど危険か、わかっているわね」
「はい、お母様」
 ジリアンは、素直に答えた。 ちょっと皮肉な言い方ではあったが、初めて母が褒めてくれたので、胸が躍った。
 ほとんど無関心のように見えていて、母は三人の娘たちのことを、ある程度は気にかけているらしい。 それが、あの見当はずれなエラ・ホッブス先生からの情報だとしても、ジリアンは嬉しかった。 そして、母の期待に応えようと決心した。



 ホッブス先生といえば、マデレーンが婚約し、ジリアンが留学の旅に出ることになったため、もうクリフォード家での職務は終わることになった。 
 ジリアンは、姉たちと相談して、ホッブスの頭文字E・Hを金箔で刻印した上等な書類入れを贈った。 ホッブスは、にこりともせずに受け取り、厳かに礼を述べてから、姿勢を正して言った。
「この五年半、あなた達を正しく導くことに全力を尽くしてきました。 レディ・ジュリアもそれは充分に認めてくださって、たいそうな褒め言葉を書き連ねた紹介状を書いていただきました。
 さて、貴族の最上位の公爵令嬢を受け持ったのですから、この国ではもうこれ以上のお宅はありませんね。 インドのマハラジャか、インドシナの姫君でも募集することにしますかね」
 そして、あっけに取られて三姉妹が顔を見合わせている間に、意気揚々と勉強室を出て行った。








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