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手を伸ばせば その89


 だが結局、マデレーンはスイスへ行かなかった。
 一月五日から始まるレント学期のために、ケンブリッジ大学へ戻る途中で、ハーバートが汽車を飛び降りて乗り換え、ロンドンに来てしまったからだ。
 ハーバートは、グローブナーの特等地にあるクリフォード家の屋敷をすぐ捜し当てた。 もしかすると、以前から調べていたのかもしれない。
 ともかく、列車を降りて一時間もしないうちに、彼は坂に面したクリフォード邸の裏口に着き、中にうまく潜り込めるかどうか確かめていた。
 そこへ、石畳の道を、買い物帰りの軽装馬車が走ってきた。 乗っていたのは、家庭教師のエラ・ホッブスとジリアンだった。
 間の悪いことに、ハーバートは鋳鉄で蔦模様に仕上げた濃緑の門を、半分よじ上っていた。 高いところから中を見ようとしていたわけで、そこへ馬車が通りかかったため、慌てて降りようとして足を踏み外し、門からドサッと落っこちた。
 背筋を頑なに伸ばし、ジリアンの横を護衛するようにしゃちほこばって座っていたホッブスには、ハーバートの動きがどう見ても屋敷から忍び出てきた泥棒に思えた。
「止まって! 今すぐ馬車を止めて!」
 腹の底から大声を出すなり、ホッブスはまだ動いている馬車の上で立ち上がり、すれ違いざまにハーバートの頭を傘で打ちすえた。
「痛いっ、ちょっと待ってください!」
 とっさに両手で頭を庇いながら、ハーバートは馬車の後部に回りこもうとしたが、ホッブスは許さなかった。 馬車の上に身を乗り出して、容赦なく柄で叩き、突っつき、また殴った。
 驚いたジリアンも、ようやく停車した馬車から振り向き、門と車体に挟まれて身動きが取れずに猛攻撃を受けている若者を見た。
 たちまち、ジリアンの眼が驚きで丸くなった。
「まあ、ハーブ!」
「何がハーブですか! こんな卑しい犯罪者に、なれなれしく……」
 そこでホッブスは、はたと気づいて腕を空中で止めた。
「ハーブ? 名前を知っている? ということは、この人は泥棒じゃなくて……」
 ウッという呻きと共に、ホッブスは青ざめた。
「大変だわ。 このいかがわしい男が、シルバーリークに住み着いたとかいうハーバート・ラムズデイルなの?」
「ええ、そうですけど、別に騒ぐようなことは」
「ジリアン・クロフォード!」
 みるみる内に、ホッブスの丸顔に血が上って、赤蕪のような紫色に変わった。
「何を言うんです! こ、この男は」
 芝居がかってブルブル震える指を、ホッブスはハーバートに突きつけた。
「たった今、お屋敷から抜け出してきたんですよ! 私たちがちょっと出ている隙にマデレーンと密会した、その足で!」




 それから巻き起こった騒ぎについては、ホッブスだけでなくハーバートにも、責任の一端はあった。
 最初は、いえ、そんなことはしてません、と否定していたにもかかわらず、御者に襟首を掴まれて屋敷内に連行される頃には何も言わなくなり、調理室の横の小部屋に幽閉されて二時間後、帰宅したデナム侯爵に書斎で尋問を受けたときには、すっかり開き直って、罪を認めてしまったのだった。








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