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手を伸ばせば その71


 それから、兄と妹は寄り添って、そっと階段の降り口に近づき、下を覗いた。
 ひとしきり、がやがやと人々の入ってくる気配がして、すぐ静かになった。 レンツォが運び込まれたのだろう。
 ジリアンは、階下から目を離さずに、横のフランシスに囁いた。
「もう寝巻き姿を見せてアリバイ作りはできたから、着替えてきたほうがいいわよ。 ここは寒いから、風邪引くわ」
「実は二時間前に戻ってきたばかりなんだ。
 犯人たちはレンツォに蹴りを入れて気絶させた後で、彼の馬を近くの木につないで引き上げていった。 ハーバートが、せめてレンツォが早く発見されるようにと言って、その馬を逃がしたんだ」
 そう、フランシスが囁き返した。
 レンツォの馬が、主を乗せずに戻ってきたから、捜索が出て、夜が明ける前に見つかったのだろう。 ジリアンは、ひとまず胸をなでおろした。
「レンツォは嫌な人だけど、死ねばいいとまでは思わないわ。 ハーバートは優しいわね」
「弟と違ってな。 あの子は強烈だ。 情け容赦ないよ」
 確かにパーシーは激しい。 年の割に大柄だし、力も強い。 彼が殴りかかる前に、別の一団がレンツォを制裁してくれて助かった、とジリアンは思った。


 二人がそれぞれの寝室へ引き取って間もなく、ヘレンとマデレーンが息を切らして戻ってきた。
 マデレーンは口を抑えて気持ち悪そうだったが、妹より度胸のいいヘレンは、少し面白がっていた。
「大変! レンツォがひどい怪我をしたんですって」
「使用人たちがひそひそ話をしていたの。 言葉がわからないからフランス語で話しかけていたら、若くてハンサムな従僕が英語で教えてくれたわ。 片腕と、肋骨が何本か折れているらしいの」
「落馬が原因?」
 事情がわかっていても、ジリアンはとぼけて尋ねた。 若い美男の従僕とは、きっとリカルドに違いないと思いながら。
 ヘレンは、眉を寄せて声を落とした。
「違うらしいわ。 でも、本人はいくら訊かれても何も言わないんですって」
 話せない事情があるのだろう。 追いはぎの件も黙ってくれればいいが、と、ジリアンは切に願った。



 やがて、町の医者が馬車で駆けつけた。 その頃には、デナム侯爵夫妻も起床していて、ただならぬ屋敷内の雰囲気に当惑していた。
 デナム侯爵ジェイコブ(=ジリアン達の父親)は、妻のジュリアをエスコートして朝食室に入り、薄く焼いたパンケーキにジャムと生クリームを塗ったものを口に運びながら、悠然と文句を言った。
「今朝は、けたたましい女の叫び声で目が覚めてしまった。 召使の喧嘩でもあったのかね」
 ジュリアはテーブルの向かい側に座って、従僕のそそぐ紅茶を気難しげに眺めていたが、その視線を夫に移すと、不機嫌な答えを返した。
「あれはエミリアの声よ。 南国の人は感情を露わにして、はしたないこと」
 驚いて、ジェイコブはフォークを持つ手を止めた。
「エミリアが、なんで泣き叫ぶ?」
「知らないわ。 でも、レンツォと呼びかけていたから、息子さんに何か起きたのでしょう」
 紅茶に口をつけたとたん、ジュリアは顔をしかめた。
「ぬるい」
「レンツォだと? マデレーンが心配するだろうな」
 ジュリアの片頬を、皮肉な影がかすめた。
「あの子が? そんなことはないでしょう。 明らかにレンツォを怖がってますよ」
「そうなのか?」
「ええ。 私達、どうやらエミリアの口車に乗せられたようね。 レンツォは確かにちょっと見はいいけれど、中身は虫喰いのリンゴよ。 母の欲目で、エミリアにはわからないんでしょうけど」
 ナプキンを上品に置いて、ジュリアは立ち上がった。 食堂にいるのは夫妻だけなので、ジェイコブは略礼にして、妻が立っても席についたままだった。
 テーブルを回って夫の肩に腕をかけ、ジュリアは前かがみになった。
「レンツォはうちの金目当てよ。 ずっと婚約解消の口実を探していたの。 今度のことは、うまく利用しなくちゃね」








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