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手を伸ばせば その69


 その夜は、近所の医者夫妻が晩餐の客として来ていた。 磨きあげられたチークの長テーブルで、花と蝋燭の華麗な列を挟んで向かい合った客たちは、イタリア語、フランス語、英語を適当に入り混ぜて、社交的な会話を交わした。
 ジリアンは、パオロと並んで末席についていた。 マデレーンは既にレンツォの婚約者扱いで、ずっと上のほうに席を移されている。 その向かいにはヘレンがいて、左右の男性から憧れの目で見つめられていた。
 ジリアンはフランシスと話したかったが、彼は町へ散策に出たとかで、食卓にいなかった。 大学に入ってからは、それまで一人息子に厳しかった父も、フランシスに自由行動を許している。 男子は身軽でいいわ、と、ジリアンは今更ながらにうらやましいと思った。


 食事中、マデレーンは浮かない顔で、うつむき加減だった。 それでも隣に寄り添ったレンツォは盛んに機嫌を取っていたが、エミリア夫人が席を立って晩餐会がお開きになると、マデレーンに優しく挨拶してから早々に食事室を後にした。
 ジリアンの椅子を引いて出やすくしてやりながら、パオロが独り言のように英語で呟いた。
「これから町へ行くみたいだな」
 ジリアンは首を回して、部屋の角に置かれた大時計を見た。
「もう九時近いのに?」
 口を尖らせたため、パオロの引き締まった頬に筋が入った。
「よくない場所に行くんですよ。 英語で何と言ったかな、そうそう、娼婦の宿に」
 ジリアンは頬を赤らめ、パオロの差し出した腕に手を置いて歩き出した。
「お兄様は発展家なんですね」
「発展家か。 うまいこと言いますね。 でも、そんな生易しいものじゃないかも……」
 そこまで言って、パオロは言葉を切った。 彼が暗にレンツォの闇の部分を警告してくれているのが、ジリアンには伝わってきた。 それで、わかったという印に、彼の腕を軽く握った。
「大きくてハンサムな方ですけど、おとなしいマデレーンには向かないような気がします」
「そうですね」
 不意にパオロの口調に力が篭った。
「ご両親にそれとなく話したほうがいいと思いますよ。 レンツォには教会で懺悔しなければならない罪がたくさんあります。 純情なお嬢様にはふさわしくない男です」


 寝支度を済ませた後、三つ並べたベッドの右端に、ジリアンはポンと飛び込んだ。
 そこは、一番窓に近い場所で、手を伸ばしてどっしりしたカーテンをめくれば、満天の星が見えた。
 下の庭は静まり返っている。 一時間ほど前に医師夫妻が馬車で帰り、そのすぐ後にレンツォが馬で出かけていってから、人の出入りする気配はまったくなかった。
 フランシスは町へ何しに行ったんだろう。 早く帰ってくればいいのに、とぼんやり考えているうちに、寝つきのいいジリアンはすぐ、眠りの国に引き込まれていった。




 シーンとしていた外が、急に騒がしくなったのは、翌朝のまだ薄暗い頃だった。
 がやがやという男たちの声に混じって、エミリア夫人の甲高い叫びが、早朝の冷たい大気を切り裂き、三姉妹の寝室にまで響いてきた。
 イタリア語だから、何を叫んでいるのか、よくはわからない。 それでも、アイユート! ソコルソ!(助けて! 人殺し!)という悲鳴だけは、ジリアンにも聞き取れた。








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