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表紙

手を伸ばせば その59


 ナポリの目抜き通りは、様々な店が並んでいて楽しかったそうだ。 だが、街中を一歩外れると、暗い小路が網の目のように巡らされていて、夜は危険だし、昼間でもぶっそうな雰囲気だったという。
「町へは絶対に一人で行ってはいけないと、エミリアおばさまに注意されたわ」
「よその国は事情がわからないから、勝手に出かけるのはよくないのよ」
 そう言って、ヘレンが意味ありげにジリアンを横目で見た。 ジリアンは負けずに言い返した。
「一人で出たわけじゃないわ。 お兄様と一緒だもの」
「フランシスは鉄砲玉だってお父様が言っていらしたわ」
 ヘレンは溜息をついた。
「飛び出したら戻ってこないって。 活気があるのはいいけれど、あなたまで巻き込むのは問題よ」
 マデレーンは二人の言い合いに加わらなかった。 ジリアンはまだ何も打ち明けていないのだが、兄妹の行動が自分に関係があるのを気付いているような態度だった。


 夜になって、ジリアンの直感は裏付けられた。
 ヘレンが母に呼ばれて両親の寝室へ行った後、マデレーンは寝支度の終わったガウン姿で、髪をブラシで梳いているジリアンに寄り添って坐った。
「お母様がね」
「え?」
「私を婚約させようとしてるの。 知ってた?」
 ブラシを持った手を止めて、ジリアンは同情の篭もった視線で姉を見た。
「ええ」
 マデレーンは呻き、片手を眼に当てた。
「ここの長男なんですって。 大貴族で大富豪で若くて美男、とお母様は強調なさっていたけど、その人がどんなにハンサムでも私、ハーバートの顔のほうがずっといいわ」
「中身もハーバートのほうが遥かに上等だし」
 そう呟くと、ジリアンは今にも泣き出しそうな姉を抱きしめた。
「こんなに故郷から離れた政情不安定な国に、マディを本気で嫁がせるつもりなのね」
 縁談を本人に告げたのは、母が決意を固め、根回しを終えたということを示していた。 ジリアンはやりきれない気持ちに駆られた。
 妹の肩に顔を載せ、マデレーンはぼそぼそ声で打ち明けた。
「買い物の途中で、ハーバートを見つけたの。 陶器店の横ですれ違って、目を見交わしたわ。 その前にパーシーも見たから、きっと彼がハーバートに来てるのを知らせてくれたんだと思う」
「いざとなったら駆け落ちね」
 ジリアンは、きっぱりと言った。
「でも、その前に、精一杯妨害するつもり。 フランシスもそう言ってる。 だから落ち込まないでね」
 マデレーンは少し笑って、目尻に溜めた涙を拭った。
「ありがとう。 結果はともかく、味方になってくれて嬉しいわ」




 次の日の昼過ぎ、問題のレンツォが屋敷に戻ってきた。
 表庭が騒がしくなったので、二階の廊下を歩いていたジリアンが窓から覗くと、下の馬車寄せで、すらりとした青年が馬から飛び降りるのを目にした。
 真っ黒な長髪をなびかせ、エメラルドグリーンの裏地のついたマントを無造作に肩から外して従僕に投げた姿は、確かに粋で洗練されていた。 斜め上からでも、鼻筋の通った顔立ちが美しいのはわかった。
 だが、彼の動作には、人を人とも思わぬ傲慢さが見え隠れしていた。








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