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手を伸ばせば その50


 ジリアンは、水を被ったようにブルッと頭を振って、はっきりさせようとした。
 それでもまだ夢想の余波が残っていて、パーシーのしたこと、しようとしたことの実感がなかなか湧かなかった。
 今、強く抱かれたとき、彼の体は小刻みに震えていた。 握った手が異様に熱かった気がする。 だが、ジリアンは彼の傍でくつろいでいた。 緊張も気まずさもなく、のんびりと空想にふけっていた。
 こんなに無用心でよかったんだろうか、と、ジリアンは初めて考えた。 ヘレンには縁談が殺到し、マデレーンは恋に落ちている。 私だって、もう大人の入り口まで来ているんだ。
 とたんに頭痛がしてきた。 たまらなく故郷へ帰りたくなった。 田舎の広大な野原で、コリンやリュースたちと駆け回りたい。 若い『レディ』などになりたくなかった。
 つねづね両親の言う、立派な家系が絶えぬよう釣り合った縁組をして、財産と子孫を増やせ、というモットーが、氷の壁のように立ちふさがり、心を締め上げた。


 並木の途切れる地点で、マデレーンとハーバートはもう一度固く抱き合い、キスを交わしてから、ゆっくりと身を離した。
 すかさずジリアンは、マデレーンの手を取って、わき目もふらず屋敷へと歩き出した。 黙っていたら、二人はいつまでも別れを惜しんで、夜になってしまう。
「また明日会えるわよね」
 引っ張られるようにして歩きながら、マデレーンがおろおろ声で囁いた。 ジリアンは口を結んだまま、大きくうなずいた。 天気が晴れで街見物に行くとしても、さりげなく道で出会うのは不自然ではない。 遠くからなら、後をついてくることだってできる。 両親がハーバートの顔を知らないのは、こういうとき便利だった。


 晩餐は、兄のフランシスが加わって一段と賑やかになった。 だが、屋敷の女主人エミリアが嬉しそうに、明後日には長男のレンツォも帰ってくる予定だと口にしたので、食卓を挟んで向かい合う席についていたマデレーンとジリアンは、はっとして顔を見合わせた。
 姉妹の間に無言の合図が交わされたのを、ジリアンの隣にいたフランシスが目ざとく気付き、妹に体を傾けて囁いた。
「レンツォの登場が気にいらないみたいだな」
 鶏肉と野菜のゼリー寄せを取り分けてもらいながら、ジリアンは給仕に聞こえないように囁き返した。
「ホッブス先生が告げ口したというお隣の息子さん、ナポリまでマディを追いかけてきたの」
「そりゃすげぇ」
 驚いたフランシスの口から、思わず学生言葉が飛び出した。
「すごく熱上げてるんだな。 レンツォとの縁談が決まったら、駆け落ちしかねないな、これは。 なにしろレンツォという男は、花から花へ飛び回る蝶のつもりでいるんだから」
「蝶なら、冬になったんだから死んでしまえばいいのに」
 辛辣なことを言うと、ジリアンはレンツォの代わりにゼリーを攻撃した。
 額に皺を寄せて、フランシスは考えこんだ。
「なんとか阻止しなきゃな。 泣き虫マディに耐えられる状況じゃないよ」
「助けてくれる?」
 思わぬ救い主に、ジリアンは興奮して高い声を出してしまった。








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