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手を伸ばせば その39



 冷え切ったケルト海が遠ざかり、船が地中海に入ると、俄然空気が和らいで、暖かいぐらいになった。
 一行を乗せた客船は、上天気の中、なにごともなく十二月八日にナポリへ到着した。 時間は朝の九時過ぎで、鏡のような水面に銀色の光が躍り、薄灰色の建物が並ぶ港を明るく照らし出していた。
 旅行慣れしている母のジュリアは、ベルベットの帽子の縁からヴェールを垂らして色白の顔を覆い、つまらなそうに細めた眼で、港全体を見渡した。
「田舎ねえ。 漁師と荷揚げ人夫しかいないようだわ」
「そんなことはない」
 紐のついたモノクルを目から外し、それを掲げて、父のデナム侯爵は桟橋のすぐ横を指した。
「ほら、あの馬車を見てごらん。 アルディーニ伯爵の紋章がついている。 我々を迎えに来てくれたんだ」
「テオの別荘までどのぐらいかかるかしら。 さんざん船に揺られて来たんだから、この上小一時間も馬車で行ったら、胸が悪くなりそうよ」


 機嫌が悪い母とは対照的に、三姉妹は軽い足取りでタラップを降りた。 港は活気があって、魚を陸揚げする漁船や、カプリ島へ行く渡し舟、水夫、頭に籠を載せて運ぶ女たちなどで賑わっていた。
 父の秘書マックスが、声を嗄らして荷物運びの指示をしている。 下で待つ馬車からは、口ひげを生やした若い男性が降り立ち、藍色のマントをひるがえして、船の方へ歩いてきた。
 暖かそうなコートにくるまった三人娘を見つけて、男性の顔が輝いた。
「これはお美しい! デナム侯爵の有名なお嬢様方ですね、間違いなく。
 僕はパオロ・ダミアーニ。 アルディーニ伯爵の次男です。 レディ・ヘレンには昔お目にかかったことがあるのですが、覚えていらっしゃいますか?」
 パオロが優雅に頭を下げたので、三姉妹も負けじと、できるだけ淑やかに礼を返した。
 茶目っ気を出して、ジリアンがパオロ青年に尋ねた。
「初めまして、末娘のジリアンです。 姉のどちらがヘレンか見分けがつきますか?」
 パオロは、額に一本指をつけ、考え込むふりをした。
「ええと、どなたも眩いほどですので……おそらく、右のレディでしょう」
「当たり! こちらがヘレンで、こっちがマデレーンです」
「どうぞよろしく」
 パオロはそつなく、三人に等分に微笑みかけた。


 そこへ、父侯爵がジュリア夫人に腕を貸して降りてきた。 また挨拶が繰り返され、パオロはぴったりとした手袋をはめた手で、大型の紋章付き馬車を示した。
「お迎えに来ました。 どうぞあちらの馬車にお乗りください。 六人掛けですが、僕は馬で行きますので、ゆっくり座れます」
「お手数をおかけして」
 ジュリアが穏やかに答えた。 母は、その気になればいくらでも魅力的に振舞うことができるのだった。


 大荷物だったが、馬車後部の荷物入れは広く、楽々と入った。 従者たちは二台目の小型馬車に乗り、一同は太陽が高く上った街の石畳を、軽快な車輪の音と共に進んでいった。








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