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表紙

手を伸ばせば その26


 駅から屋敷へ戻る馬車の中で、マデレーンとジリアンはどちらも無言だった。
 マデレーンはハンカチを出して、赤くなった眼の縁を幾度もぬぐった。 涼しくなった晩夏の風が涙を乾かしてくれるのを期待しているらしく、帽子のリボンをほどいて上気した頬を吹いてくる方角に向けていたが、始終新しい涙があふれるため、効果はほとんどなかった。


 一方、ジリアンは今時分になって、心臓が変なふうに打ち始めて困っていた。
 パーシーに抱きしめられるなんて、夢にも思っていなかった。 ましてキスなんて想像の外、どこか他の世界の出来事みたいで、今思い返しても現実とは信じられなかった。
 口と口を合わせただけのキスぐらい、大げさに考えることじゃないんだ、と、ジリアンは自分に言い聞かせた。 少なくとも、パーシーはそう割り切っているはずだ。 町育ちの世慣れた男の子なんだから。
 そこで彼の立ち直りの早さと冗談めいた口調を思い出し、ジリアンの興奮はみるみる冷めていった。


 私は、あの対応でよかったんだろうか。
 わからなかった。 ただとっさに、気まずくなりたくない、と真剣に願った。 まだ二人は、十代の半ばにも達していないのだ。 しばらくは今年の夏のように、妙な気兼ねなく一緒に遊びたかった。
 これからパーシーは兄の後を追って大学に入り、将来の道を決めるだろう。 次男だから家業以外の仕事につくかもしれない。 それまでに、まだ五年以上ある。
 五年先…… ジリアンはぎこちなく息を吸い込んだ。 女と男の時間は違う。 その頃、ジリアンはもう適齢期の十九歳で、結婚相手が決まっているかもしれなかった。


 軽い二輪馬車は、道の角にさしかかって小石に車輪をかけ、大きく揺れた。
 座席からずり落ちそうになって、マデレーンは慌てて体を持ち上げた。
 それから、堰を切ったように話し出した。
「私ね、ハーブと約束したの。 待ってるって」
 ジリアンは黙ってうなずいた。 マデレーンは、しゃっくりのような音を合間に挟みながら、早口で続けた。
「ずっとね、想ってたのよ。 彼と手をつないで歩きたかった。 どこか景色を眺めててね、ふっと横を見ると、ハーブと目が合うの。 何回もそういうことがあったわ」
「うまく隠してたわね」
 ジリアンが穏やかに言うと、マデレーンはまた泣き顔に戻った。
「隠してたわけじゃないの。 ただ、どちらも言い出せなくて。 だって初めての経験でしょう? 自信がなかったのよ」
「何の自信?」
「これが恋なのかどうか」


 恋、というマデレーンの言葉が、冬の白い息のように空中に浮かんで、ジリアンの耳に食い入った。
 恋か。
 初めてジリアンは、仲良しの姉との間に距離を感じた。
 恋はきっと、私には縁のないものだ。 上の姉のヘレンのように息を呑むような美人じゃないし、マデレーンみたいに女らしくもない。 私はたぶん結婚しないか、母の決めた人と礼儀正しく式を挙げるのだろう。








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