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表紙

手を伸ばせば その23


 八月の最終日、ハーバートとパーシーは汽車に乗って、学校へ戻っていった。
 ハーバートの属するケンブリッジ大学は、まだ休暇が残っていたが、パーシーの行くパブリックスクールが九月初めから授業を開始するので、早めにハーバートが送っていくことになった。
 パーシーは、余計なお節介だと怒っていた。
「みんな一人で寮に入るんだぜ。 俺だけ兄貴がついてくるなんて、かっこ悪くてしょうがないよ」
「だから駅で下ろすまでだって言ってるだろう。 転校して初めての学期だから、手続きが残ってるんだ。 こっちは高校の学務室へ行くから、荷物は自分で運べよ」
「当たり前だ、そんなの」
 二人は、クインシーの駅構内に入っても、まだぶつぶつと口喧嘩していた。


 マデレーンとジリアンは、ジョンの御する馬車で二人を見送りに行った。
 これからクリスマス休暇まで、兄弟に会うことはできない。 大学のミケルマス学期が開始されるまでの約一ヶ月間を、ハーバートは父の会社で実務見習いをして過ごすことに決めていた。
 汽車が来るまでの半時間、ハーバートは姉妹とベンチに座り、別れを惜しんだ。
「クリスマスの三日前までには戻ってこれると思う。 帰りにロンドンへ寄るけど、何か買ってきてほしいものある?」
 マデレーンは頬を赤くして、身を乗り出した。
「あのね、できたら香水をお願いしたいの」
「マディ」
 小声で言いながら、ジリアンは姉の袖を引いた。 若い男性に、女性専門の香水店へ行って買ってきてほしいと頼むなんて。
 だが、ハーバートは意外に平気な顔でうなずいた。
「わかった。 どんな香りがいい?」
「薔薇か鈴蘭系。 うちではまだ化粧水しか使わせてもらえないから、本物の香水が欲しいの」
「デビュタントにぴったりの上品なのを選ぶよ」
 ハーバートは請け合い、ジリアンにも微笑を向けた。
「君は? 僕は商人の息子だから、たいていの店に入れる。 だから遠慮しないで言ってくれ」
「それじゃ」
 ジリアンは目を輝かせた。 前から夢見ている物がある。 村では手に入れにくいが、ハーバートなら。
「ディケンズの『荒涼館』を買ってきてくれる? 品がないと言って両親がディケンズを嫌っていて、読ませてくれないの」
「いいとも。 お安い御用だ」
 ハーバートは二つ返事で引き受けてくれ、手帳にしっかりと書きとめた。


 ホームの端から眺めていたパーシーが、煙が見えたと言って戻ってきた。 いよいよ汽車が来たのだ。
 やがて蒸気を吐きながら停車した車両に、パーシーが黙々とトランクを運びこむ間も、ハーバートは乗車しないで姉妹と話していた。
「ご両親はクリスマスには屋敷へ戻られるかな?」
「さあ、どうかしら。 母は友達と湖水地方へ行くようなことを手紙に書いてきたわ」
「それは寂しいね」
「もう慣れたわ。 半年ぐらい会わないのが普通だから」
 背後の丘から風が吹き降りてきて、マデレーンの帽子についたクリーム色のリボンを揺らした。
 彼女とハーバートがとりとめなく会話しているのを、ジリアンが黙って聞いていると、一等車の扉が開いて、パーシーが手招きした。
 ジリアンは、左右に顔を向けた。 誰かいるの?
 パーシーに視線を戻すと、彼はじれったそうに顎をしゃくってみせた。 どうやらジリアンに合図しているらしかった。


 これには驚いた。 夏の間、パーシーがジリアンに直接話しかけてきたことは、ほとんどなかったからだ。







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