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表紙

手を伸ばせば その8


 アボッツ村は、いつものようにのどかだった。 中央通りには、パブの横にパン屋が並び、その斜向かいに、小さな本屋と小間物屋が軒を連ねていた。
 まず小間物屋へジリアンが入ると、ドアに取り付けたベルがチリンチリンと鳴り、リンゴのような頬をした女主人が笑顔で出てきた。
 店主も刺繍が好きなため、ここの刺繍糸は品揃えが豊富だ。 ジリアンは彼女に相談して、短時間で入用な糸を揃えることが出来た。

 次は隣の本屋だ。 店がこじんまりとしていて、新しい本はほとんどないが、ジリアンにとって宝庫のような場所だった。
 店の主人のソーンダースは、軍隊時代の古傷で足を引きずっており、出てくるのに時間がかかる。 その間、ジリアンはわくわくしながら棚を見渡し、どのぐらい小遣いを貯めたらマーミアンが買えるだろうか、とか、フランスの小説は読んではいけないときつく言われているけれど、スタール夫人ぐらいはいいんじゃないだろうか、とか、夢をふくらませた。
 つい誘惑に負けて、棚の中ほどにある『トリスタンとイズー』を引っ張り出し、ページををめくったとき、誰かの入ってくる気配がした。
 自然に振り返ったジリアンは、目を大きくした。 そこにいたのは、普段ほとんど見かけない、青い制服を着た海軍の軍人だった。
 彼も先客を発見して立ち止まり、鋭い光を放つ眼を細めて、じっと見返した。
「君は、ここの娘さんかな?」
「いいえ」
 ジリアンは、急いで棚に本を戻した。
「頼んでいた本を受け取りに来たんです」
 そのとき、奥から不ぞろいな足音と共に、店主のソーンダースが姿を現した。
「いらっしゃい、ミス・ジリアン。 ご注文の本は届いてますよ」
 そう言いながら、彼は背後の書棚の扉を開け、しっかりとくるんだ茶色の包みを出して、ジリアンに渡した。
「ありがとう」
 ジリアンは、期待に満ちた笑顔になって代金を支払い、包みを胸に抱きしめると、踊るような足取りで店を後にした。


 少女が去った後、ソーンダースは片眉を吊り上げて、前にそびえている若い将校をしげしげと眺めた。
「そんな目立つ格好で来ないでくださいよ」
 軍人は苦笑した。 すると、シャープな顔立ちが崩れて、親しみやすい雰囲気になった。
「着替えている暇がなかったんだ。 どうだね? 情報は集まったか?」
「まあなんとか」
 ソーンダースはまた背後の扉を開き、更にその奥にある隠し戸棚に手を入れて、小さな書類の束を取り出した。








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