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手を伸ばせば その4


 ユーグの手伝いをして、厨房に野菜を運んでから、ジリアンは廊下伝いに図書室へ向かった。
 その途中で、音楽室から出てきたヘレンと、あやうくぶつかりかけた。
「キャッ! メアリーったら何急いで……あら、メアリーじゃないのね」
「私ですわ、お姉さま」
 ジリアンは、わざと丁重に答えた。 ヘレンはジリアンの腕を掴み、ドアの陰に引き込んでから、早口で囁いた。
「シッ、ロデリックが来てるの。 お兄さんのマーティンも一緒に」
 わけ知り顔に、ジリアンは片眉を吊り上げてみせた。
「なるほど。 お姉さまにプロポーズ?」
「何言ってるのよ! 紹介されたばかりなのに。 まだ一度しか会ってないのよ」
 二人は声を押し殺してクスクス笑った。
「近くを通りかかったから、猟場を見学させていただきたい、ですって」
「見学したいのは猟場じゃないわよね。 お姉さまの金髪と、湖のような青い眼だわ」
「止めてよ、ジリー。 デビューしたばかりの新顔だから、珍しいだけよ」
 ヘレンははにかんで、頬を桜色に染めた。


 長女で十七歳のヘレンは、東サザンプトンシャー(現在のハンプシャー)では十二の頃から美少女として有名だった。 だが、その昔ロンドンで並ぶものなき美女と称えられたジュリア・アーリントンを母に持つヘレンは、しごく謙虚で、自分ぐらいでは美人の片隅にも入らないと思っていた。
「惜しかったわね。 社交シーズンの途中で戻ってこなくちゃならなくて。 ロンドンにほんの二ヶ月いただけで、こんなに崇拝者が押しかけてくるなら、フルシーズン出ていたら外国の王子様ぐらい手に入ったかもしれないわ」
 静かにしてと言ったのを忘れて、ヘレンは笑い転げた。
「王子様なんて要らないわ。 ここを離れて外国で暮らすなんてまっぴら」
「ヘレン! なんです? はしたない」


 翼のように広がった主階段の左側を、黒いレースの服をまとった婦人がしずしずと降りてきた。 ジュリア夫人の叔母にあたるレディ・ラモントだ。 いつも不機嫌で口やかましいので、三人姉妹だけでなく使用人たちにも嫌われていた。
 派手に笑ったのを叱られて、ヘレンはおとなしく目を伏せたが、ジリアンは平気でレディ・ラモントを見返した。
「大叔母様、ごきげんよう。 ハンカチの刺繍はもう仕上がりまして?」
「まだです。 青の糸が足りなくなって。 でも、刺繍糸の一束ぐらいでわざわざ村へ行くのは面倒だし」
「じゃ、残りの糸を下さい。 同じ色を見つけて、買ってきます」
 ジリアンは、元気に提案した。
 柄付き眼鏡を持ち上げると、レディ・ラモントは二秒ほどジリアンを観察した。 ジリアンは少し首を傾け、天使のような表情で微笑んでみせた。
「ちょうど注文した本を取りに行くところなんです。 『少女のための作法と手仕事』という本です。 ジョンが馬車で連れていってくれますから」
「そう? じゃ、頼もうかしら」
 レディ・ラモントは陥落した。
「私の部屋に来て。 青だけじゃなく、ピンクとグリーンも頼むわ」
「はい」
 何くわぬ表情でついていこうとする妹を、ヘレンは引きとめた。
「『少女のための何とか』なんていう本あった?」
「あるわけないでしょう? 私が受け取りに行くのは『ロドルフォの誘惑』よ」
 ジリアンが素早く囁き返したので、ヘレンは口に手を当てた。
「あの、すごく大胆な場面があるっていう小説? まあ大変」
「後でお姉さまにも読ませてあげるから」
「私はいいわよ。 マディなら喜んで読むでしょうけど」
「ジリアン! 何ぐずぐずしているの」
「はい、大叔母様!」
 清らかな声で答えて、ジリアンは階段を軽々と駆け上っていった。











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