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表紙

手を伸ばせば その3


 立派な馬車が軽快な車輪の音をさせながら遠ざかっていくのを、ジリアンは少しの間見送った。
 そして、黒い馬車が木立の陰に隠れるのを見届けたとたん、スカートをたくし上げて走り出した。


 厨房につながる石畳の東通用口に到着するとほぼ同時に、中から料理人のユーグ・メルモランが出てきて、ジリアンと危うく正面衝突するところだった。
 どんぐり眼を天に向け、ついでに両腕も大きく振り上げて、ユーグはフランスなまりの英語でまくしたてた。
「まーったく、マドモアゼルはリスか、白テンか! なぜ他のジャンティーユなドモアゼルたちのように動けない? なぜわたしの足元に飛びつく? え、マ・ベル?」
 ユーグは見上げるほど背が高い。 小柄なジリアンは、足元にまとわりつくと言われてムッとした。
「私、子犬じゃないわ。 それに、あなたのマ・ベル(かわいい人)でもないし」
 ユーグはとたんに意地悪げな目つきになった。
「ほう、マドモワゼル・ジリーは誰のマ・ベルでもないね。 木の皮みたいな服を着て、男の子みたいにピョンピョンして。
 それじゃ永久に、男性に愛されるシャンスは来ないね」
「シャンスじゃなくてチャンス」
 わざと発音を訂正しながら、ジリアンはふざけてユーグを叩く真似をした。
「なによ、意地悪おじさん」
「ユーグは意地悪じゃない。 それに、おじさんでもない。 ユーグは三十一。 シェフのエローだよ」
「エローって、ヒーローでしょ?」
「なんでhを発音する? イギリス人とドイツ人は息がヒュッヒュッ。 理解できない。 フランス語はエレガントな外交用語だ」
「わかったわよ、お国自慢はもういいから」
 ジリアンは、大鍋を持ち上げ、骨付き肉を切る毎日で木こりのように太くなったユーグの腕に、細くしなやかな自分の腕をすべりこませた。
「どこへ行くところだったの?」
「菜園。 チシャと蕪を採ってこなくては」
「手伝うわ」
 ユーグは肩をすくめ、空いたほうの手を広げた。
「助かるよ。 助手のワトキンスがバターを貰いに行って、まだ戻ってこない。 あいつは大事なときに、いつもいない!」
「はいはい」
 大きなフランス男と小さなイギリス娘は、仲良く腕を組み合って菜園に向かった。
 春の天気のように気まぐれで、不意に怒り出して頭を抱え込むユーグの機嫌を直せるのは、ジリアンだけだった。 高給取りの外国人シェフの孤独を、ジリアンは敏感に感じ取ることができた。
 ジリアンは、長男の次に続いて生まれた三人娘の一番下。
 両親にとっては、どうでもいいおまけにすぎなかった。
 










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