表紙

水晶の風 60


 この世は、口に出せないことだらけだ。 しゃべってしまったら終わり、という言葉もたくさんある。 だが、ふたりの再出発は、きちんと声に出して、自分の非を認めることから始まった。 もう二度と誤解の渦に巻き込まれないように、互いの立ち位置をしっかりと確かめることから。
「入って」
 手を引かれるまま、和基は庭先で靴を脱ぎ、居間に上がった。 そのときやっと、麻耶は自分が薄い室内履きのまま飛び出していたことに気付き、くすくす笑った。
「汚れちゃった。 ちょっと待って」
 上がり口に座って足先に手を伸ばすと、傾けたうなじが白く浮き上がった。 和基は目まいを覚えた。 虹が散ったような色が眼前に広がり、意識がちらついた。
「麻耶さん」
 声がかすれた。 麻耶は首だけ上向けて、微笑をただよわせた。
「なに?」
 重力がワッとのしかかってきた。 和基は床に膝をつき、麻耶を腕一杯に抱き取ると、胸に思い切り引き寄せた。



 一つだけ灯りのついた二階の部屋は、麻耶のものだった。 ふたりは寄り添ったまま階段を上がっていき、開いたままのドアから中に入った。
 白と緑と焦げ茶を基調にした上品な室内だが、和基には何も目に入らなかった。 ただ腕の中の麻耶だけ、何百キロも糸を引かれるように車を飛ばした恋の相手だけを見ていた。
 麻耶の腕がすっと伸びて、スイッチを切った。 とたんに部屋は、庭と同じ色に包まれた。

 麻耶の肌はなめらかで、思ったよりひんやりしていた。 頬ずりするとき、唇がピアスに当たった。 そのとたん、強く思った。
――誕生石は何だろう。 ピアスをプレゼントしたいな――
 人に物を贈りたいと願ったのは初めてだった。 自分の贈ったもので相手を飾りたいと思ったのも。
――女で転落する男の気持ちって、これか。 何度も見てきて、まったく理解できなかったが、そうか、こういうことか――
 危険な衝動だった。 それに安心して身を任せることのできる自分を、なんて幸運なんだろうと和基はしみじみ感じた。

 恋をしているときは時間などわからない。 腕をからませあったまま、ときどき軽くキスしていると、下からだみ声が聞こえてきた。
「麻耶ちゃん、開けて。 玄関に鍵かけんなよ〜」
 悠香だ。 相当酔っているらしい。 ベッドのふたりは無言で、息を潜めた。
 やがて悠香は、ぼそぼそ泣き言を言い出した。
「寝ちゃったの? やだーみんな私のこと構わないで、放ったらかしにして。 ねえ麻耶ちゃん、起きてよー」
 鼻をぐすぐすさせながら、悠香は庭に回ってきた。 そこで思い出したらしい。
「そうだ、ここから出たんだった。 こっち開けっ放しだよ。 泥棒入るよ、ねえ……あれっ?」
 麻耶は、笑い出しそうになって、口にぎゅっと手を当てた。 和基が呟いた。
「俺の靴か……。 行ったほうがいいかな」
「平気。 悠ちゃんは勘がいいから」
 楽しげに、麻耶は恋人を引き寄せ、髪に手を入れてくしゃくしゃに乱した。
「さあ、出て行けない攻撃!」
 緊張がほぐれて、和基も顔が緩んだ。

 下の雰囲気が、がらっと変わった。 静かにサッシを閉める音がして、それから陽気な声が階段から響いた。
「靴、玄関に置いとくね! お・や・す・み・なさーい!」

 間もなく、調子っ外れの明るい鼻歌が遠ざかっていった。




【終】







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