表紙

水晶の風 59


 しゃがみこんだまま、和基は黙然としていた。 自分でかけた罠に自分が落ちた気分だった。
 麻耶は動かない。 和基も動けない。 進退きわまったと思われたとき、頭の上のほうを何かが走り抜けた。
 最初に塀を駆けてきた物が、木の枝に飛び移ろうとして失敗し、和基のすぐ横に落ちてきた。 追いかけてきた敵がその上に飛び乗り、耳をつんざくようなわめき声と共に、殴り合いが始まった。

 不意を討たれて、和基は思わず飛びのいた。 いきなり庭の隅から大きな人間が現れても、ショバ争いで頭に血が上った猫たちは見向きもせず、蛇のようにシューシュー言いながら攻撃しあっていた。
 反応したのは、廊下にたたずんでいた麻耶のほうだった。 はっとして暗がりに目を凝らし、それから、ほとんど声にならない声で、何かを呟いた。

 うわー、格好わるい――手のほどこしようのない気持ちで、和基はぼさっと立ったまま、廊下に視線をやった。 足元で猫たちはまだ喚いている。 小さな体のどこから出るのだろうと思うほどの声量で、傍にいると耳が痛くなった。
 これはどう見ても不審者だろう。 何か言わなくちゃ――和基が息を吸って声を出そうとしたその瞬間、麻耶が動いた。
 縁側にはもうサンダルはない。 悠香が履いていってしまった。 だが、麻耶はいきなり宙を泳ぐような形で、室内履きのまま庭に降り立った。
 それから、走り出した。 立ち尽くす和基目がけて、まっしぐらに。
 暖かい体がぶつかってくるのを、和基は反射的に受け止めた。 ぎゅっと抱きついたその腕から、風呂上りの爽やかな石鹸の香りが舞った。


 どのくらい抱き合っていたのだろうか。 時間の観念は二人の頭から吹き飛んでしまっていた。
 気がつくと、庭は静かになっていた。 猫たちの喧嘩は勝負がついたらしく、それぞれ別方向へ去って行くかすかな足音が聞こえた。
 和基の胸に、麻耶の額が強く押しつけられた。
「来てくれたんだ、わざわざ横浜から。
 嬉しい。 すごく嬉しい……」
「ごめん」
 胸の底から、その言葉が沸き出てきた。
 結局、俺は逃げたんだ、と和基はようやく自覚した。 正面から問いたださず、黙って消えた。 利用された怒りより、愛なんてなかったんだと思い知らされる怖さのほうが、大きかったからだ。
 胸に顔を埋めたまま、麻耶は激しく左右に首を振った。
「悪いのは私。 何も言えなかったの。 気がつかないままだといいなと願って、全部ごまかそうとしてた。
 怖かったんだもの。 嫌われるのが」




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