表紙

水晶の風 57


 駐車場からカ○ーラを出してきて、和基は母を乗せた。 空はどんより垂れこめていたが、彼の心は綿雲より軽くふわふわと浮いていた。
 半日前までは想像もできなかった心境の変化だった。 ほんの昨日、和基にはすべてが妙に硬く、現実的に見えていた。 あと数年は仕事一筋で、その後はキャリアに役立ちそうな娘を探して適当に結婚しよう、と、醒めた気持ちで考えていたのだ。
 助手席で、母は落ち着きなくバッグを確かめていた。
「今日はうちで食べてくよね?」
「うん、その……」
 つもりだけど、という言葉が、突然宙に浮いた。 額を殴られたような衝撃と共に、目がぱっちりと開いた。 ついでに、ぼんやりしていた頭も慌しく動き出した。
――麻耶さんに電話? そんな回りくどいことしなくても、近道していけば伏木は車でニ時間あれば行ける……!――
 ステアリングを握る手が熱くなった。 ついでに頬も赤くなってなきゃいいがと思いながら、和基は早口になった。
「悪い、忘れてた。 友達に預けてた荷物、取りに行くんだった」
「なんだ、そうなの?」
 母は、いかにもがっかりした声を出した。
「久しぶりに賑やかな晩御飯になると思ったのに。 すき焼きだよ? ラードとヘッドで本格味だよ?」
「うん……」
 いつもなら一もニもなくすき焼きを取るが、今日はもう気持ちが伏木に飛んでしまっていた。
「明日じゃ駄目か? 七時半に必ず行くから」
「ああ、大丈夫。 明日にする? じゃ今日は冷凍餃子で」
 母は喜んで、本日の夕食をワンランク下げてしまった。


 家の玄関まで母を送り届けると、和基は車をUターンさせて表通りに出た。 初夏で、日の出ている時間がもっとも長い頃だが、それでも、賑やかな町並みは、次第に暮れていく藍色の空に明るく浮いて見えた。
 七時五分過ぎ。 和基はガソリンのメーターを見た。 ほぼ満タンだ。 これから長いドライブの始まりだった。




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