表紙

水晶の風 48


 こうして、正月休みに何となく兄と話したことがきっかけとなって、和基の留学はとんとん拍子に決まってしまった。 行く先はボストン。 ロースクールでLLM(法学修士)を取得することが義務付けられた。
 どうせなら早ければ早いほどいい。 向こうの環境に慣れるためにも、二月中旬には出発して、授業に見合う英語力をつける目的で語学学校に入ることにした。 どちらかというとのんびり屋の和基がどんどん話を進めていくので、親たちは驚いていた。


 中西はつまらなそうだった。 どうやら和基が気に入っていたらしい。
「ずいぶん突然の話ですね」
「半決まりしていた候補が事故っちゃったそうで、うまくもぐりこめたんですよ」
「まあ、合田検事なら選ばれても不思議はないんですが」
「いや……」
 そこで和基は思い出して、中西の好きそうなマイルド系のコーヒーの大袋を渡した。
「セールやってたので、受け取ってください。 突然いなくなって迷惑かけますが、後任はすぐ補充されるそうですから、その際はよろしくお願いします」
「お、いい豆ですよ、これ。 ありがたいです」
 中西は嬉しそうに受け取った。 そして、棚にしまいながら、まだ言い続けていた。
「しばらくいてくれると思ってたのにね」


 出発のときは、両親だけが見送りに来た。 帰りに二人で芝居を見て、レストランで食事するという。 和基よりもそっちのほうが目的なんじゃないかというぐらい、楽しそうだった。
 これからは英語漬けの毎日だ。 とりあえずブラッシュアップするために、飛行機の中ではヘッドホンで英会話を聞いたり英語圏の歌をかけたりしていた。
 新しい土地に行くときめきはなく、みぞおちの辺りが変に冷静で、心が醒めていた。



 アメリカの大学院は、山のようなケースブックを読んでまとめるレポートがどさっと出る上、ディベートやプレゼンテーション(研究発表)も多い。 ひたすら勉強の毎日で、雑念の入りこむ余地はほとんどなかった。
 いざとなると度胸が据わる和基は、半年もするとプロジェクターを使った事例説明をこなせるようになり、気の合う現地の学生や、様々な国から送られてきた留学生たちと、すらすら話し合いができるようにもなった。
 大学の敷地は日本より遥かに広く、自然が豊かだった。 キャンパスの外れに牧場があったり、裏手を川が流れていてボート遊びができたりする。 激烈だった期末試験の後、疲れた頭を休めるために、珍しく一人で大学の敷地を探検しに行ったとき、和基は、川のほとりで肩を寄せ合っている男女を見た。
 男子学生は鼻眼鏡で本を読んでいた。 片手でページをめくり、もう片方の腕を女子学生の腰に巻いている。 女子のほうは、男子にもたれかかって、安心しきった様子で目を閉じていた。
 ただそれだけ。 キスも何もしていないのに、目を向けた瞬間、和基は視線をそらし、回れ右した。
 草に半分覆われた小道を戻りながら、和基の胸は不規則に揺れていた。 信頼し合っているカップルが、妙に眩しく、また、憎らしく思えた。



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背景:硝子細工の森
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