表紙

水晶の風 37


「恋人って思っていいのかな」
 麻耶はちょっと体を動かした。
「いいよ」
 低い囁きが返ってきた。

 こういう瞬間の勝利感を、何に例えていいのだろう。 フットサルの試合で勝ったときの高揚した気持ちとは違う、じわじわと胸の中にしみわたり、日常を別の色に塗り替えるこの感動を。
 和基はぐんと背が伸びた気がした。 低い和室の天井を突き抜けそうだった。 まるで本物のウルトラマンのように。

 キスしろ、と本能がそそのかした。 どうやって不自然でなく体を曲げるか考えていたそのとき、妙な音が耳をかすめた。
 自然界にはない響きだった。 シャッターの降りる音だ、と悟った瞬間、和基は麻耶を離し、身をひるがえしてガラス戸に駆け寄った。
 庭を猿のように飛び出して行く人影が、ちらりと見えた。 ズボン姿だが男ではない。 片腕を曲げてひらひらさせながら走っていく後ろ姿は、どう見ても若い女だった。
 和基は腰に手を当て、女が逃げていった方角を睨んた。 すぐに麻耶が近づいてきて、横に立った。
「なに?」
 庭を見たまま、和基は答えた。
「人がいた。 たぶん君の妹」
「えっ?」
 とたんに麻耶は、外へ通じるガラス戸を引き開けて、上半身を突き出し、周囲を眺めやった。 冷気が小さな渦を巻いて、戸の隙間から廊下に入ってきた。
「どうしてわかったの? 庭のほうを向いてなかったのに」
「音がした。 カシャッと」
「カシャッ?」
 麻耶にもすぐ、音の正体が分かったらしい。 姿勢を戻して戸を閉めるとき、怒った顔をしているのが見えた。
「何考えてるんだろう、あの子」
「『現実の眼』に写真売り込もうっていうのかな」
 和基が皮肉混じりに言うと、麻耶は途方にくれた表情になった。
「そんな、まさか。 どっちも独身だし、スキャンダルじゃないし」
「じゃ、保険だ」
「保険?」
「そう。 彼女が事件に一枚噛んでた場合、調査を手加減してもらうための」
 麻耶の表情が、徐々に変わった。 物思いに沈みながら、彼女は小声で尋ねた
「確かにあの子、瓜川さんべったりだったけど……何か後ろ暗いことをしてたと思う?」
「さあ。 調べが進まないと何とも言えない」
「だから辞めなさいって言ったのよ!」
 不意に麻耶は大声になった。 その声には真実味があり、心から妹を心配しているように聞こえた。 

 この思いがけない出来事で、空気は一変した。 麻耶はぎこちなくなり、帰ると言い出した。
 和基は内心ひどくがっかりした。 送っていこうと申し出たが、麻耶は早口で断わった。
「平気。 ほんのちょっとの距離だから。 じゃ」
 そそくさと玄関に下りたところで、麻耶は顔を上げて和基を見た。 どこか、すがるような目つきだった。
「変なことになってごめんなさい。 でも、考えてみたら、きっと大した意味じゃない気がしてきた」
「じゃ、なぜわざわざあんな真似を?」
「さあ……」
 声が中途半端にフェイドアウトした。
「嫌がらせか、ひょっとすると焼き餅かも」
「彼女そんなバカに見えないよ」
 和基はそっけなく言い返した。



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