表紙

水晶の風 6


 つられて微笑もうとしたとき、腹の虫がグオッと鳴いた。 それも相当な音量で。
「あ」
 黙っていればいいのに、つい声になった。 菱野麻耶は別に笑わず、早口で言った。
「晩御飯まだなんですね。 ごめんなさい、引き止めちゃって」
 俺は引き止められたのか――なんだか嬉しい気持ちが先に立ち、和基は普段ならしないことをした。 ほぼ初対面の相手に、人懐っこく質問した。
「店探してるんです。 大通りへ行こうと思ってここ歩いていたんですが、いいラーメン屋か何かご存じないですか?」
 すると、彼女は門から足を踏み出して、和基に並んだ。
「ありますよ、すぐ近くに。 私もご飯まだなんで、一緒に行きません?」

 歩きながら、和基は驚きともう一つ別の感情でしびれたようになっていた。 風呂上りにぶらりと外食しに出た――ただそれだけのさりげない行動が、きれいな人との夕食につながったのだ。 やったぜ! という気持ちはもちろんあったが、キツネにつままれたような不思議感が大きかった。
 菱野麻耶は柔らかい生地のパンツ姿で、上半身には大きな三角ストールを巻いていた。 並ぶと背丈は和基の鼻のあたり。 ちょうどつりあう高さだった。
――キスするとき首が痛くならないな――
 ふとそんなことが頭をよぎり、和基ははっとした。 先走りすぎる。 どうも今夜の自分は調子外れだ。
「どこから移ってこられたんですか?」
 菱野麻耶がのんびりした口調で訊いた。 和基はあわてて現実に還った。
「九州からです。 福岡。 あの、最初から引っ越してきたってわかってましたね。 なぜかな」
「大枝線にはいつも決まった人が乗るんです。 他にはたまにカメラ持ったローカル線マニアぐらいで。 あなたはそのどちらでもなかったから」
――大枝線? じゃ、高代前駅で彼女を見かけたとき、彼女のほうも俺を見ていたってことなのか?――
 だが、目を合わせた覚えはなかった。彼女はまっすぐ前を見ていて、しかも何か考えこんでいる風だったのだ。
 不思議だった。 いつ観察されていたのか。
 


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