表紙

 空の魔法 91 過去の亡霊



 激動の後、もうエネルギーを使い果たしたように凪〔なぎ〕の時期が訪れることがある。
 七階の二家族にも、そんなぼんやりした陽だまりの月日が待っていた。 本人たちは精力的に動いて、むしろ以前より忙しく活気に満ちているのだが、心はどこかふわふわと浮いて、甘やかされた猫状態でくつろいでいた。
 そんな空気の中だが、絵麻はいい成績を保っていたし、泰河は目をらんらんとさせて、三年生から卒論のテーマ探しにいそしんでいた。 昇にこの世から追い払われそうになったとき、もともと持っていた負けじ魂に火がついて、間もなく義理の父になる男への猛烈な対抗心が目覚めたようだ。
「オレは要らない人間じゃない」
 絵麻の学校の創立記念日に、二人で国立近現代建築資料館へ出かけた帰り道、不意に泰河が宣言して、絵麻を驚かせた。
「誰がそんなこと言ったの?」
「誰も言わんけど。 強いていえば、社長かな」
 絵麻は梅干顔になった。
「うわー、まだ根に持ってる」
「忘れないよ〜」
 声に震えを効かせた後、泰河は笑い出した。
「いや、恨んでるわけじゃないが、この世で必要な人間なんだって証明したい気持ちは強いな」
 地下鉄湯島駅三番出口の前に来て、絵麻はわざと泰河の手を握り、しっかりつないだ。
「天が証明したじゃない。 泰河は生きなきゃいけないって雷を落とした。 まさに天の雷〔いかずち〕。 当たってたら、お父さん焼け死ぬところだったんだよ」
「すごい言葉知ってるのな」
 泰河がまじめに感心した。 並んで地下鉄構内に入りながら、彼は思い出して続けた。
「ほんと小っちゃい雷だったんだな。 落ちても火事になんなかったんだ」
「そう、向かいのビルの壁が焦げたけど、消火器ですぐ消したって」
「奇妙なことがいろいろ起こる」
 二人はこのところ、博物館めぐりにはまっていた。 絵麻は家庭の方針でゲーセンに行ったことがないし、泰河は手と目を酷使するゲームよりせっせと歩くほうが好きなので、デート場所に博物館がぴったりだったのだ。
 建築資料館は将来の仕事に関係するため、前から行きたかった。 ところがここは土日と祝日が休みで、平日の開館日は午後四時半までしかやっていないという、まるで銀行みたいな施設なので、二人の休みを合わせて普段の日に訪れるしかなかった。
 平日だから、一つしかないホームに人はそれほどいなかった。 電車を待つ間、泰河は絵麻と指を絡ませて、低く言った。
「社長はオレがオヤジを殺したと思ってたんだよな?」
 久しぶりにタブーの話題が出た。 絵麻は背中を強ばらせたが、ふつうに答えた。
「そう」
 電車が来て、手をつないだまま乗った。 その車両はすいていて、傍に誰もいなかったため、話は続いた。
「オレは社長がついにやったんだと思ってた」
 絵麻は思わず目を上げた。 泰河は小さくうなずいた。
「だから共犯者のオレを殺したかったんだって」
「共犯?」
 絵麻がたじろぐと、泰河は手短に説明した。
「凍ってるオヤジをドライアイス漬けにして、車のトランクに入れて日光の山に持ってったんだ。 社長と二人で」
 絵麻は目を閉じて小さく身震いした。 こうなるとほとんどホラー映画の世界だ。
「冷凍庫に入れた後、どうしたのかとずっと思ってた」
「オレはただの運び屋だけど、社長はすごかったよ。 山ん中で捨てた後、オヤジに化けてホテルにチェックインして、どっかの酒場でオヤジのふりして酒まで飲んだんだぜ。 すごい度胸だ」
 お父さんと檜蔵人はあまり顔立ちは似ていない。 ただ、蔵人はいかにもマスコミ関係者という格好つけが好きで、特に運転するときはいつも、色の入ったレイバンのサングラスをかけていた。 だから顔はごまかせる。 それに二人の背の高さはだいたい同じだ。
「お父さんは泰河を庇っているつもりでいたんだね。 泰河はその逆だった」
「うん、たぶんな」
 電車は国会議事堂前駅で止まった。 ここから歩いて南北線に乗り換える。 二人は軽い緊張状態のまま、電車を降りた。







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