表紙

 空の魔法 1 思い出の空



 のんびりしているとか、落ち着いているっぽいとか、ひどい友達になると年中ボケッとしているとか言われがちだが、そんな絵麻〔えま〕にもふと注意力がとぎすまされて、鮮やかに残っている記憶がある。
 なんということのない日常の風景だ。 それまで毎日のように繰り返され、ほぼ習慣になっていた夕暮れのひとときで、特別なことは何もなかった。 なのに、その直後に起こった奇妙な出来事にも負けないぐらい、はっきりと脳裏に刻みこまれているのはなぜだろう。


 五月の半ばといえば、新緑がもっともあざやかなときだ。 小学生のとき、絵麻は自分用のスコップとバケツを持って、祖父としょっちゅう庭園に上っていた。
 上るというのは妙な言い方に聞こえるかもしれない。 だが夏瀬〔なつがせ〕家にとって、これが正しい表現なのだ。 祖父は一九八一年にエトワール・ナツセを建設するにあたって、屋上を緑化すると宣言して、息子である絵麻の父としばらく揉めていたそうだ。 でも最後は昔ながらのワンマン経営者だった祖父の意見が勝ち、おしゃれな複合ビルの先陣を切って、エトワール・ナツセは屋上の九割を潅木が取り巻く芝生にすることになった。
 土なんかで汚したら建物が傷むと、父の昇〔しょう〕はぶつぶつ言った。 だが絵麻は、春になるとじんちょうげの甘い香りから始まってつつじが華やかに咲き、くちなしが梅雨に白く濡れる屋上が大好きで、祖父の後をついてまわって枯れ葉取りや水やりに一生懸命動き回った。 そして少し大きくなると、自分用のプランターを運び上げて、チューリップやスイセンなどの丈夫な球根を植えて育てた。 祖父は非常に喜び、孫のほうが息子よりおれに似ていると自慢しては、一人息子の昇をむっとさせた。
 頑固な元気者だった祖父は、もういない。 代りに絵麻が、毎日屋上へ行くようになった。 二○○一年に父が言い出して屋上の総点検を行なったとき、意外な結果が出たことで、ますます庭園が大切になっていたからだ。 すっきりアスファルトがむき出しになっている一割の屋上面積は、経年劣化が進んでいて防水工事が行なわれた。 ところが芝を貼り、植木を育てていた九割は、ほとんど無傷のままだったのだ。
 自分の正しさが証明できて、祖父は勝ち誇って五年後に大往生した。 絵麻はいそいそと庭園の手入れを続け、新社長となった昇はまったく屋上に上がってこなくなった。 彼もけっこう頑固者なのだ。


 その日のことは、日付まで覚えている。 五月の二一日で、すでに気温が高く、ちょっとむっとする日だった。 絵麻は高校から戻るとすぐTシャツと袖なしのマキシワンピースに着替え、麦わら帽子をずぼっと被ってすでに夏スタイルで、屋上への階段を上がった。
 この階段を使えるのは、夏瀬一族だけだった。 屋上のすぐ下の階、というか雛壇〔ひなだん〕式で下も屋上といえるのだが、その階はまるまる夏瀬一族の住居になっていて、専用エレベーターもついている。 前は祖父と祖母が半ばを占めていて三家族だった。 今は昇一家と、昇の妹の檜〔ひのき〕一家が住み、真ん中にある祖父の住居は両家の物置として使われていた。
 屋上の扉を開くと、見事な夕焼けが目に飛び込んできた。 エトワール・ナツセは当時の建築規制で三○m以上のビルが建てられなかったため、七階建てと、そう大きくはない。 でも天井が高くゆったりと作ってある高級ビルで、住み心地は抜群だった。 そして、眺めもなかなかいい。 絵麻は幸せな気分でスマホを取り出し、空に向けてパチリとやった。
 背後でごそりと音がした。 慣れているので、絵麻は振り返りもせずに声だけかけた。
「あ、来てたんだ?」
 またごそっという音が続き、ぺたぺたとサンダルの足音が近づいてきて、すぐ横に立った。
「あの折りたたみチェア、なかなかいいよ」
「ちっちゃいでしょ、泰河〔たいが〕には?」
「そんなでもない」
 もう1枚写真を撮ってからようやく振り返ると、明らかに座ったまま昼寝していたらしいくしゃくしゃ頭が、夕日に透けて金色に光っていた。







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