表紙

 空の魔法 2 夕日の陰に



 二人はしばらく黙って、太陽がごちゃごちゃしたビル群の彼方に没していくのを眺めていた。 絵麻が、隣に住んでいるのが泰河でよかったと思うのは、こんなときだ。 彼は沈黙を恐れない。 間が持たないからとしゃべり始めて、雰囲気を壊すようなことはしないのだ。
 ただし、絵麻が感動からさめて動き出した後は、実に現実的なことしか言わないのも、泰河の特徴だった。
「腹減った。 下にピザ食いに行こか?」
「うーん」
 絵麻はためらった。 もうじき夕食だから、脂っこいものは食べたくない。
「行くけど、泰河は小さいの取って全部食べて。 私はクリームティラミスにするから」
 泰河はあっさりうなずき、椅子の背に引っかけたジャケットを取りに行った。


 屋上からの短い階段を下り、エレベーターのボタンを押すとすぐ、絵麻はさりげなく尋ねた。
「おじさん帰ってきた?」
 チンと音がして、ドアが開いた。 二人は並んでエレベーターに乗り込むと、両端の壁にもたれて向き合った。
「ああ」
 どうしてわかったのかとは訊かない。 泰河が屋上で昼寝しているのは、たいてい父親の説教から逃れるときなのだ。
「今度はどこへ行ってたって?」
「近場。 新緑の下呂〔げろ〕温泉へ五日間」
 はあ──絵麻はしらけた気分になった。 泰河の父親の檜蔵人〔ひのき くろうど〕は、舞台やテレビのシナリオライターをしていて、体験と転地が発想につながるのだと言っては旅行しまわっていた。
 絵麻の父、夏瀬昇〔なつがせ しょう〕はけっこう大きな会社の社長だが、休みもろくに取らずに働き続けている。 それでも不景気だとかで業績はパッとせず、絵麻はもう何年も父に旅行へ連れて行ってもらえなかった。
「たまには泰河も連れてったらいいのにね」
 すると泰河は目を細めてニヤッと笑った。 目尻に寄ったしわが、精悍な顔に温かみを添えた。
「ウザイから何日か追っぱらいたい?」
「ちがうよー」
 絵麻はまじめにむきになった。
「一人で楽しんでないで、家族にも体験をさせてあげればいいのにって思っただけ」
「楽しむとは、よく言った!」
 泰河が大声を出したところで、エレベーターが止まった。 専用エレベーターはあまり速くない。 メインは最新の機械を入れたのだが、家族用は並みにしてもらった。 祖父ではなく、昇の意見だった。
 目立たない廊下の曲がり角から出ると、そこはピカピカの商店街だった。 レストランからはウスターソースの香りがただよい、絵麻のお腹がつられて小さく鳴った。
 泰河が体を前かがみにして、低く囁いた。
「やっぱ腹すいてる?」
「うん」
 絵麻はいつも、泰河には素直だった。
「でも今日はお母さんの誕生日だから、一緒に食べないと」
 泰河は息を呑んだ。
「そうだった! おれ忘れてた」
「いいのよ。 泰河は初美〔はつみ〕おばさんの子じゃないし、うちのお母さんにまで気つかわなくても」
「その初美かあさんが気つかわないからさ」
と、泰河は珍しく苦い口調で応じた。  







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