表紙

 空の魔法 90 浮気と本気



 こうして、夏瀬家はわずか半日で、元に収まった。
 夜、いつもの時間に戻ってきた父は、普段通りに母が迎えに出て鞄を受け取ったので、一瞬キツネにつままれたような顔をした。 その表情を母の背後から見た絵麻は、にやけそうになる頬を懸命に引き締めた。


 その後も、母の態度は変わらなかった。 父の着替えを手伝いながら仕事先であったちょっとした出来事の話を聞き、ほかほかのスープつきの南蛮漬けを出して、三人でにぎやかに食べた。
 父はやや口数が多かった。 そして母は、笑顔が一割り増しだった。 ふたりとも見えないところで緊張している様子だったが、次第に落ち着いてきて、夕食が終わるころにはほとんど平常に戻った。
 母の横で洗い物を手伝い(といっても、わずかな食事の残りをペーパーで拭いて、食器洗浄機に入れるだけだが)、その後ダイニングに戻って塩コショウなどを片付けていると、ソファーに位置を移していた父が、傍に来た絵麻に小声で訊いた。
「お母さんにどこまで話した?」
 その点は、母と打ち合わせ済みだった。 そして絵麻自身にも秘密があった。
 父の横に座ると、絵麻は低く答えた。
「泰河とのことは話さなかった。 あれはやっぱり秘密にしたほうがいいと思う」
 父はわずかにうなずいた。 それから更に緊張した表情で、娘をまともに見た。
「じゃ、何話した?」
 絵麻は何くわぬ顔で答えた。
「何も。 だってお母さん、全部知ってたもの」
 そして、父の顎が落ちるのを、ひそかに楽しんだ。 悪い娘だと自分でも思ったが。
「……えっ?」
「由香子おばさんが、とっくの昔に話してたんだって。 というより、お母さんが勘づいて聞き出したっていうか」
 それから、そっと付け加えた。
「檜蔵人に渡したお金、もったいなかったわね」
 父は少しの間混乱していた。
 やがて首を振り、額を手のひらで押さえた。
「なんで今まで黙ってたんだ?」
「知らなかったことにしたかったんだって。 結婚前のことだし。 でも結婚した後にお父さんが浮気したら、きっと出ていっただろうって」


 正確に言うと、母の言葉とは少し違う。 素子はしみじみと言ったのだった。
「お見合いは、条件で決まるでしょう? 私たち、お互いに条件が合って一緒になったの。 少なくともお父さんのほうはそうだったと思う。
 でも、条件が愛情に勝てるとは思えなかった。 ほら、恋は魔物っていうじゃない? だからお父さんが恋に目覚めちゃったら、いったん実家に戻って、本物か浮気が見極めるつもりだった」
「私なら戦う」
 絵麻はきっぱりと言った。
「ボロボロになるまで戦う。 それでもダメなら」
 言葉が詰まった。 泰河を誰かに奪われたら、自分はどうなるんだ。
 母は絵麻の肩を抱き、小さな子供のように揺すった。
「私から見ると、泰河くんのほうが絵麻に夢中にみえるけど」
 でも私は戦った、と、絵麻は心の中で呟いた。 泰河を死なせないように、全力で戦った。


 父は右手を固く握ってから、指を伸ばしたり開いたりした。
「浮気なんかしてない。 それもわかってたんだな」
「着替え、手伝ってるもの」
「あ」
 父は目を上げた。 それからゆっくり微笑んだ。 やや歪んでいたが、心からほっとした笑顔だった。
「なあ、絵麻」
「なに?」
「お母さんタヌキだな」
 絵麻は何度もうなずき、父と笑みの混じった視線を交わした。







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