表紙

 空の魔法 89 ホッとした



 ちがうわよ、お母さん!
 絵麻は泣きたくなった。 母は自分がどんなに愛されているかわからないのだ。 お父さんとしか付き合ったことがないから。 女子校の一貫高を出て、女の友達作りはうまいが、生身の男性はお祖父さんしか傍にいなかったから。
 お父さんもお父さんだ。 いくらお見合い結婚だって、愛してるぐらい言えないのか。 父親の後始末ばかりさせられて、絵麻は腹が立ってきた。
 それで、うすうす感じ始めていた疑惑が、ポロッと口からこぼれおちた。
「お母さん伊坂のおばさんと仲いいでしょう?」
 素子はほとんど表情を変えなかった。 夫よりポーカーフェイスがうまい。
 しかし、普段はしない瞬きの繰り返しをしたため、内心の動揺が伝わってきた。
 やっぱり知ってるんだ、加奈さんのこと── 絵麻はショックを少しだけ味わい、それから、どっと安心した。 これで、隠し子は隠し子でなくなった。 いつばれるかと、父と共にひやひやしなくてもいいのだ。
「じゃ、もう秘密はなし。 私この前、加奈さんに逢ったの。 偶然に」
 母の手が、椅子の肘掛を掴みそこねて前にすべった。 絵麻はできるだけ淡々と話し続けた。
「加奈さん泰河に会いに来たの。 最初ライバルかと思っちゃった。 でも違った」
 絵麻は加奈の母の事故を語り、父が十八年間一度も西条の家を訪れなかったことを知らせた。
「お父さん加奈さんの写真を一枚も持っていないんだって。 意地っぱりよね。 望んだ子じゃなかったかもしれないけど、いないことにして切り捨てちゃうなんて。
 でも生活の面倒は見てたし、伊坂のおじさんから報告は受けてたらしい。 加奈さんがまじめで、成績がいいことを知ってた」
「そう」
 素子は短く相槌を打った。 まだ無表情で、本心はうかがわせなかった。
 絵麻はそこで、深く息を吸った。 これからが話の本番になる。
「お父さんね、檜蔵人に脅迫されてたの。 加奈さん親子のことで」
 さすがに素子の顔色が変わった。
「脅迫?」
「そう。 去年までお給料が少なかったのは、会社が不景気だからじゃなくて、脅迫のせいだったんだって」
「そんな……」
 しばらく素子は言葉を失った。
「……なんで言ってくれなかったのかしら。 それに、どうして黙ってあんな人の言いなりになったの? 家庭の外に子供のいる社長さんを、私三人も知ってるわよ。 よくないことだと思うけど、みんな平気な顔してるし、週刊誌も特に騒がないわ。 大会社の場合、後が怖いもの」
「お母さんのためよ」
 絵麻は静かに答えた。
「お父さんはお母さんに絶対知られたくなかった。 きっとお母さんのことを、眠り姫みたいに思ってるのね、お父さんは。 世の中の汚いことは何も知らずに、お父さんを幸せにしてくれる天使だと信じてるのよ。 だから、加奈さんのことがわかったら怒って実家へ帰ってしまうと思って、それが怖くて」
 素子は首をかしげた。 それから喉を詰まらせた鳩のような顔になった。
 絵麻が複雑な気持ちで見守っていると、不意に素子は口に手を当て、涙をぽろっとこぼした。
 一滴だけだった。 首を振って涙の粒を振り切った後、素子は泣き笑いの表情に変わった。
「絵麻〜。 お父さんって本当に女のことがわかってるのかしらね。 高校生の絵麻でさえ、こんなにいろいろ知ってて、気を遣ってるのに。 女子校育ちの私がどれだけいろんなこと聞かされたか。 男子がいないと女子って、教室で堂々ととんでもないことしゃべるのよ。 大学ではピンクのアルバイトしてる子だっていたし」
「そうなの?」
 思わず好奇心で身を乗り出しながら、絵麻は密かに決意した。 女の子が生まれたら、母の通った学校には入れないようにしようと。







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