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 空の魔法 88  誰もが悩む



 絵麻は何とか野菜を切り終わると、母と並んでキッチン用の高さが調節できる椅子に腰掛けた。 なんとなくしょんぼりしている娘に、素子はさとすような口調で話しかけた。
「お母さんはね、お見合いで結婚したから恋愛ってよくわからない。 でも泰河くんと絵麻の交際に反対する気はないわ。 泰河くんが蔵人さんの子だっていうのは嬉しくはないけれど、でも本人はすごくしっかりしてるし」
 絵麻は急いで顔を上げた。 そうだ、肝心のお母さんに説明してなかった!
「ちがうの。 泰河は別の人の子」
 そして驚く母に、これまで泰河に聞いた本当の話を語った。
「泰河を実の子として入籍するって言って結婚したんだって。 でも、約束守らなかったらしい」
「……そういうことだったの」
 母はゆっくり手をもみ合わせ、青い顔になった。
「結婚詐欺みたいなものね。 じゃ、もしかすると初美さんとも?」
 レポーターだライターだと、かっこよさげな横文字の職業名を並べて、実は四流ゴシップ雑誌にスキャンダル記事を提供するだけだったらしい蔵人を、夏瀬一族が婿として受け入れたのを、素子はずっと不思議に思っていた。 だからようやく謎が解けた。
 絵麻は言葉少なくうなずいてみせた。 やはり母はすぐ推察してしまったのだ。
「うん、そうだって」
「やっぱり」
 それからいきなり母の目がキラリと光った。
「絵麻、あなたお隣の人生相談係になっちゃったようね」
「ごめんなさい」
 絵麻は反射的に詫びた。
「私の秘密じゃないから、お母さんにもお父さんに話せなかったの」
「みんな隠し事はあるわよね」
 素子は苦く笑い、ぱりっとしたエプロンについた小さな醤油のしみを眺めた。
「私はお父さんに会ったとき二一で、今まで見た中で一番すてきな男の人だと思った。 男性とデートするのも初めてで、それまで誰とも付き合ったことがなかった。 信じられる? この現代でよ? 友達にはほとんど彼氏がいたのに」
 うわぁ、お母さんまで!
 初めて聞く打ち明け話だった。 もちろん絵麻には誰の告白より興味があったが。 それで息を殺して、耳を澄ませた。
「もちろんお父さんは、私みたいにウブじゃなかった。 ウブって知ってる? 純情ってことよ」
「聞いたことはある」
 そのとき絵麻は、話の方向性に気づいた。 それで懸命に表情を変えまいとした。
「結婚前に付き合った人がいて、不思議じゃないわよね。 それで私としては、お父さんをつなぎとめなくちゃいけなかったの。 だから好きな料理をもっと磨いて、会社の人やお友達から彼の身の回りの情報をもらったわ」
 お友達……。 お父さんの親友といえば、伊坂のおじさんだ。 優しい笑顔の持ち主で、絵麻の誕生日には必ずカードを贈ってくれる。 そして伊坂のおじさんの奥さんは、加奈さんのお母さんの友達だという。
「お母さんなりに努力したのよ。 でもたまに空しくなるときがある。 たとえば今みたいに。 お父さんも絵麻も、お母さんには肝心なことは何も話してくれない」
「そんなことないの、本当に!」
 絵麻は声をうわずらせた。 大変だ。 ここでお母さんの気持ちが離れてしまったら、お父さんは立ち直れなくなる!
「言っちゃっていいのか、もうわからなくなっちゃったけど、言わないともっと誤解されそうだし。 お父さんは世界一、お母さんが大事なの。 大げさに言ってるんじゃなくて、本当のことなの!」
 素子は束の間無言だった。
 それから小さく笑った。
「ここが住み心地いいから?」







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