表紙

 空の魔法 85 父の悲しみ



 お腹一杯になって、心もほぐれて、絵麻は軽い足取りで自宅に戻った。 昇が初美に祖父の住居の鍵を渡しておいたので、一緒に出てきた泰河は自分の部屋に帰ることができた。
「ただいま」
 いつものように挨拶して玄関に入ったとき、絵麻はすぐ空気の違いを感じ取った。 家の中がしんとしている。 一拍遅れて母の返事が聞こえたが、元気がなかった。
「おかえり」
 そういえば、まだ学校の制服のままだった。 戸口に立てかけておいた通学鞄はどうなったのだろう。 絵麻は落ち着きを失い、着換える前にまずリビングに顔を出した。
 母は一人でソファーに座っていた。 珍しくテレビを見ていて、絵麻の気配に気づくとすぐ消した。 そして、いきなり訊いた。
「ねえ、何かあった?」
 絵麻は立ったまま、困り果てた。 父は先に帰っているはずだが、姿が見えない。 何も話してない、というか、話せないままだったらしい。
「あの、お父さんと泰河と少しもめて」
 少しどころの騒ぎではないが、とても口に出せなかった。 素子は小さく首を振り、すらりとした脚を前に伸ばした。
「そうか〜。 いつかはそうなるんじゃないかと思ってたわ」
「もう仲直りしたの。 誤解だったってわかって」
 絵麻が力説しても、素子はいつもの笑顔にならなかった。
「じゃお父さん、なんで落ち込んでるの?」
「落ち込んでる?」
 オウム返しするのはやめなさい、と日ごろからしつけられているのを忘れて、絵麻は反射的に訊き返した。 母も動揺しているらしく、咎めずに答えた。
「胃が変だから夕食はいらないって言うのよ。 そのくせ胃薬は飲まないの。 お父さんらしくないでしょう?」
 父は細身だが、普段はよく食べる。 絵麻は心配になった。
 父は確かに、恐ろしい犯罪を計画した。 しかしそれは、娘を守るために父としてやぶれかぶれの決断をしたのだ。 結果として大きな間違いだったにしても、その計画は未遂に終わり、泰河はぴんぴんしている。
「今、寝てる?」
「ちがうみたい。 さっき書斎に入って、それっきりだから」
「ちょっと見てくる」
 すぐに向きを変え、絵麻は廊下の端にある父の書斎へ急いだ。


「お父さん?」
 扉の外から呼びかけると、少し経って中から開いた。 内鍵をかけていたらしい。
 そのまま背を向けて椅子に戻っていく父の背中を、絵麻はじっと見つめた。 なんだか丸まっているような気がした。
 絵麻も中に入り、戸を閉めた。 鍵まではかけなかったが、母に聞かれたくない話だった。
「初美おばさんと泰河、仲直りした。 いてくれって頼まれて、一緒にカレー食べたの」
 そこで初めて、昇が顔を上げた。
「そうか」
「そうなの。 文哉ちゃんが喜んでね」
 デスクの横に置いてあるスツールにちょこんと腰を下ろすと、絵麻は熱心に話した。
「文哉ちゃん大人になる前に、全部忘れてしまえるといいわね。 つらかったことも、死のうと思ったことも、蔵人おじさんが勝手にミルクを飲んじゃったことも」
 昇はつやつやしたデスクの上に腕を置き、低い声で唸るように言った。
「あの男は、なんで泰河が毒を入れたなどと思ったんだ?」
 絵麻は一生懸命考えた。
「他にいなかったからでしょう。 毒の瓶を高い棚に隠したのに、手が届くのは」
「ねたんでやったんだ、と言い残していたな。 泰河が親のいる文哉に嫉妬していると思ったのか」
 昇の口から歯ぎしりが漏れた。
「まったく、人間は自分が考えるように人も考えると思うんだな。 あいつは嫉妬深い男だった。 僕が親の七光りで贅沢していると、いつも嫌味を言っていた」
「うらやましかったんだ」
 絵麻はふと、蔵人が哀れになった。 親が金持ちなだけでなく、お父さんには実力も人望もある。 実の子もいて、二人の女性に心から愛されている。 すべてで劣っていたら、みじめな気持ちになるだろう。
「蔵人おじさんがお父さんに保険金かけて殺そうと思わなくて、ほんとよかった」
 きわどいブラックユーモアだった。 わかっていたけれど、絵麻はわざと口に出した。
 案の定、殺すという言葉に、昇の肩がびくっと動いた。 絵麻は素知らぬ顔で、後を続けた。
「あの人、そうやって泰河を始末しようとしてたんだものね。 泰河も皆に狙われて大変だったわ」
「おい」
 昇が小声で非難した。 絵麻は曇りのない笑顔になった。
「しょうがないわよ。 お父さんやっちゃったんだから。 でも途中で止めた。 だから未遂。 二度とやらないってわかってるし」
「もうとても無理だ」
 昇は大きな息を吐いた。
「体力・気力ともにダメだ。 あいつ岩のように重かった」
「一八三センチ、六二キロよ」
「おまけに筋肉質だしな」
 二人の視線が合った。 絵麻がいたずらっぽそうに笑ったので、昇の口元もわずかに広がった。
「夕食に帰ってこないから、一緒に食べたくないのかと思った」
 ぽつりと父の本音が出た。 絵麻の笑顔が消えた。
「そんなこと、あるわけない」
 それから声を潜めて尋ねた。
「ねえ、どうやって泰河に睡眠薬飲ませたの?」
 昇は目をそらし、いやいや答えた。
「熱いウーロン茶の缶を二本持っていって、屋上で選ばせたんだ」
「薬をどっちにも入れて?」
「……うん」
「お父さんも策士だ。 でも飲まなかったら?」
「そのときは中止する気だった」
 絵麻は切なくなった。
「泰河は何でも食べるから」
 それにお父さんを信じてたんだ。 だから意識が遠くなってきたときは焦ったんだろう。 これからまた信じてくれるかな。 きっと大丈夫だと、絵麻は思った。 泰河には度胸と根性があるもの。







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